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たるさんの部屋

★星になった教え子★(3)
*琴丘高サッカーだより第84、85、86号、神戸新聞記事から

「先生よかったね。準々決勝進出やね」と夕陽がきれいな練習後。
「さよなら」と笑顔で別れたマネージャー〔めぐ=藤井恵〕がその帰りに
交通事故に巻き込まれ瀕死の重体に。
びっくりして緊急搬送された病院へ。すでに集中治療室(ICU)内で危篤状態。
生死を彷徨いながら〔めぐ〕の戦いが始まっていた。
医者からは「いつダメになっても不思議ではない」と。

〔めぐ〕は暑い中でも凍えるような寒い日でも部員のためにグチや文句一つ言わず
黙々と裏方の仕事をコツコツやるタイプ。
料理や掃除、かたづけが好きで家庭的。洗剤負し皮膚がただれても口には出さない。
物静かで誠実。私の話やミーテングも一生懸命聴いてくれる。
オカッパ頭で背筋を伸ばして膝を軽く曲げて歩き「~~ですよねぇ」が口癖。
うつむいて歩く姿勢がふだんと違うと気になって「〔めぐ〕何かあった?」
と私に読まれる。だがどんな時も「いえ、大丈夫です」と心配かけまいと。
逆に私がちょっと疲れ気味の時は必ず「大丈夫ですか?」と。
自分が気を使われることは嫌うがマネージャーの仕事の合間にさりげなく
後方にいてくれ私に気づかい。
熱すぎず冷たすぎず季節に応じたお茶が絶妙のタイミングで出てくる。
1年時は私のクラスで集団訓練や文化祭も体育祭もよく遊んだ。
イジッても女生徒特有の「気づかい」も〔めぐ〕には無用で話しやすい。

*事故翌日10月29日
〔めぐ〕の状況を部員に伝える。
部員の驚きは計り知れずショックでボールを蹴るどころではなかった。
部員は私に内緒で〔めぐ〕の両親と病院に懇願(ICU)に入り〔めぐ〕の戦う姿を
見て、病院が閉まるまで待合室で手を合わせ立ちすくんでいたとのこと。
朝7時から5分間三女好美(琴丘〔めぐ〕の一つ下のマネージャー)と面会に。
毎日〔めぐ〕の笑顔がもう一度見たいと祈るように。だが進展はない。

*11月5日
朝いつものように面会に行くと家族がそろっていた。状況は予断を許さない。
そして1週間戦い続けた〔めぐ〕が一度も意識が戻ることなく力尽きた。
朝練をしている部員に「訃報」を伝える。
グランドは紅葉と澄みきった青空。それを〔めぐ〕は見ることが、、、、。
その日の放課後部員は部室で泣く崩れて練習に出てこないと思われたが
部室の中から「〔めぐ〕のために戦うぞ」らしき部員たちの声が響く。
きっと〔めぐ〕も部員へ
「大事な大切な大会が8日にある。なのにここ数日私のせいで練習できてない。
それはマネージャーの私が困る、練習してくださいよぉ~」と〔めぐ〕が
独特の口調で言ってるはず。〔めぐ〕の意志に応えるように部員はグランドに
整然と整列をし大声でアップ。気持ちがいつも以上に入る感じの練習。

練習後に好美とみっちゃん(嫁)を連れて〔めぐ〕の実家に。
そこには1週間戦った形相はなく薬と延命補助器具から解き放された
お人形さんのようなきれいな〔めぐ〕。
人を包み込みそうな「仏さん」のような安らかな顔で眠ってた。
クラブ中「先生~お茶です」と差し出してくれたいつもの〔めぐ〕の顔が。

●11月7日 永遠の別れ
出棺前、柩(ひつぎ)にいっぱいの花を入れてる時きれいに化粧された〔めぐ〕の
目から頬へ一筋光るものが、、キラキラ輝く宝石の涙をみんなに見てもらった。

弔 辞◇                  ー藤定るみ子ー
こんなかたちで〔めぐ〕ちゃんに手紙を書くのはつらいです。
思い出を話すときりがないね。高校入学してずっーと私の隣にはあたりまえのように
〔めぐ〕がいた。あたりまえのようにサッカー部に入ってあたりまえのように
同じ時を過ごしたね。お互いの口癖は「家族より長くいっしょにおるよな」
つらいことも一緒。楽しいこともいっぱい、いっぱい笑って、いっぱい泣いて。
〔めぐ〕の隣が私の最高の居場所でした。言葉で言い表せないほど大切な人です。
いっつも笑顔でからかいたくなる性格やから誰からも好かれ思いやりが人一倍あって
頼まれると「イヤ」と言えない。
でも私らの最後の頼みを〔めぐ〕は聞いてくれなかった。       .
「卒業式後にまた会おうな、一生の友だちでいような」と誓ったのに。

人を思いやる〔めぐ〕だからこれからも〔めぐ〕らしい笑顔で家族や私たちを
見守ってくれると信じています。
藤井恵という人と出会えてことを心から感謝してます。
なのにこんなに早く別離れなくてはならないことが悲しくくやしいです。
知り合えてよかった、親友でいさせてもらってほんとうによかった。
ありがとう!!大好きな〔めぐ〕ちゃんへ。

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<11月10日・神戸新聞記事>
琴丘、初の決勝進出!!
〔県高校サッカー〕神戸弘陵のV3阻む

○琴丘イレブンはユニホームのそでに「喪章」を着けてプレーした。
3年生女子マネージャー「藤井恵さん」が今月5日交通事故で亡くなった。
7日の葬儀にはサッカー部員がひつぎを運んだ。
その悲しみを乗り越えての決勝進出である。
後半神戸弘陵の猛反撃に耐え1点差を守りきった。
「マネージャーの分まで頑張ろうとみんなで誓い合った。しんどくなったら
喪章を握って自分を奮い立たせた」と播戸主将。
神戸弘陵の連覇を阻んだ裏には亡きチームメートの後押しがあった。

<11月16日・サンTV放映・神戸中央球技場(現ホムスタ)で>
琴丘、全国へあと一歩
〔県高校サッカー〕滝川二高に逆転で敗れる。

○ベンチには私と好美の間には笑顔〔めぐ〕の遺影が。
サンTV放映では〔めぐ〕の紹介が。
琴丘イレブンはユニホームのそでに準決勝と同じ「喪章」が。
ユニホームの下のアンダーシャツには部員から〔めぐ〕へのメッセージが。
〔めぐ〕のおかげで滝川二高相手に実力以上のサッカーが展開できた。
〔めぐ〕ほんとうにありがとう!!

◆エストパーク建設の中、神様〔めぐ〕からの御告げがあった。
「心からエストパークができること喜んでます」とのこと。
〔めぐ〕とその場に一緒にいたい。         ーー合掌ーー

 

★星になった教え子(卒業生編)★

高校を卒業し、さぁ人生これから、、というのに。生きたかったはずなのに。
教え子の葬儀に出るほど辛いことはない。

〔A男〕
琴丘が一番強く結果が出た学年。60人余りの部員の年代。
背が高くいつも胸を張って姿勢がいいものだから余計に大きく見える。
パワーにもあふれ激しい守備には迫力があった。
もう少し柔さと技術があればレギュラーを奪え近畿大会にも出場できたのに。
優しすぎる性格で一歩も二歩も下がって前に出ない。全てに遠慮勝ち。
笑うといつも細い目がなくなってしまうほど優しい笑顔が今も消えない。
ーー合掌ーー

 

〔B男〕
琴丘が県の上位の常連となり伝統高となりつつある時代。
毎年大人数が入部するがその年わずかに10名。姫路市民大会すら取れない
弱小チーム。その学年に〔B男〕は少年、中学と姫路を代表するGKとして入学。
だが弱小学年が「まじめさ」を武器にして兵庫県新人戦でベスト4に。
<1回戦>1ー1(PK勝)<2回戦>1ー0<準々決勝>1ー1(PK勝)
*3試合で得点3点、わずか2失点で。しかも2試合はPK勝ち。
まさにゴールを死守した〔B男〕の存在が奇跡のベスト4の原動力となった。
かわいい子どもが生まれ幸せの絶頂にいたはずが、、、勤務途上中バイク事故。
残された子どもがあまりに、、、本人が一番悔しいやろうな。
ーー合掌ーー

 

〔C男〕
遠く校区外からはるばるJRを乗り継いで。英文科(当時)に成績トップで入学。
出身中学校の監督二人はともに私の教え子。その先生がそろって
「明るくて性格も抜群によく、その上頑張り屋」まさにその通りの生徒。
シャープでスピード豊かなプレーと同じく「ハイ!」と気持ちのいい返事。
私のジョークにはいつも真顔で(通じない)まじめ。バカがつくほどまじめ。
うまくいかないとすぐに顔に出る何度も悩み、落ちては何とかしないともがく。
プレーも性格もまっ正直で不器用そのもの。その必死さで何度も胸が打たれ感動する。

本当に気持ちのいい「スカッ」とする印象が強烈に残った生徒であった。
難関私学も合格し将来悠然とした人生が待っていたはずが、、「・・病」に。
残念ながら闘病生活は一切知らされずそのことが私や同級生を苦しめた。
〔C男〕のことだから病魔とも正面から向き合い戦ったであろうと想像がつく。
もちろん聞いたところで何もできないのだが、、、
せめてせめてそばには居て苦しみを分かち合いたかった。
仲が良く私の大好きな学年の一人であっただけに卒業後何度も何度も会えるものと
信じていただけに、、、。
ーー合掌ーー

 

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☄星になった教え子(1)

*琴丘高サッカーだより第539号から*

平成24年暑い夏が終わり2学期早々兵庫県選手権西播予選でまさかの敗退。
着任して20年以上続いていた県大会出場が途切れた翌日の出来事。

*9月11日:新チーム始動の日
「桝本和成(呼び名=ます)」が練習後倒れた。
姫路循環器センターへ緊急搬送。病名は・・・・・。危ない。
搬送先は私が21年前に心臓停止寸前で意識を失い戦った集中治療室(ICU)。
なんという巡り合わせ。
即、緊急手術。医者は危ないが手術ができれば望みが、、、手術開始午後8時。
そこから7時間の大手術。全ての手は尽くされ悪いなりに症状は安定へ。
手術後は脳のダメージを休めるために眠ることになる。
部員には夏の疲れが出てしばらく病院で静養してるので「心配するな」と。
私一人で抱えるのは辛くて学年主任、副主任(共にサッカー部顧問)には逐一報告。
本当に両先生には助けていただいた。

*9月16日
医師からは「本人とつながりが強くある人から呼びかけてもらうと少しでも
早く麻酔から覚めますので」とのことで〔ます〕の呼びかけに(ICU)へ。
「ます~、起きろ!!練習に遅れるぞ、みんな待ってる、ボール蹴るぞ」
耳元でわめき続け手を握り体をさすり続けるが私は涙が止まらない。
私もペースメーカー埋め込み手術の際に麻酔をかけたあと記憶がなくなって
いったことを鮮明に覚えてる。
そんな状況でも聴覚と皮膚感覚は最後まで生きてると信じて叫び体をさする。
やがて〔ます〕の目からうっすら涙が、、、「ます!聞こえたら手を握り返せ」
すると人指し指が微かに動いた。そばにいたお父さん、お母さんもビックリ。
右肩が動き起き上がろうとする。通じた。さすが頑張り屋の〔ます〕
だが「1週間以内に再発すると危険」と言われたその矢先に最悪の事態が。。

*9月17日
またも4時間をかけて大手術だが状況は危険なまま。
両親に「もう私一人の力では無理。どうか仲間に会わせてやってほしい。
部員のパワー、力がいる。あいつらが何も知らないまま、このまま、、、」
とお願いをして両親と病院からの面会の許可をいただく。

*9月18日
放課後3時30分に緊急ミーティングを開き今まで伏せていた病状を伝える予定。
5時45分に部員も「ICU」へ入り面会できるまでに何とかこぎつけた。
だがミーティングまで待ってくれず〔午後3時〕危篤状態に陥り家族が招集される。
両親にせめて一目だけでも部員にと懇願。
学年集会中の部員たちを学年主任に依頼して急遽「ICU」へ。
何も知らない部員の目の前のベットには〔ます〕の強烈な信じがたい姿が。
あ然、ぼう然。やがて泣き出しベットの横で崩れる。驚きで声も出ない。
やがて我に返り〔ます〕の体をさわり、さすり、手を握り。そして絶叫。
「ます!ますーーッ」「サッカーしょー」「ます!ます!」、、、修羅場、、、
だが無情にも看護師の「家族だけの時間にして下さい」との声。
待合室や緊急出口で手を合わせて祈り泣くしかできない。
あきらめて帰った夜「みんなに会ったあと血圧が上がり心臓も動き出した」と。
あきらめない〔ます〕まさに「琴丘魂」

*9月19日
「ICU」大人数での面会は無理なのでグループに分ける。
3年の先輩にも声をかけるが初めて聞く話にショックで動揺を隠せない。
播戸竜二(C大阪)増川隆洋(名古屋)の琴丘大先輩から激励FAXを枕元へ。
〔ます〕の憧れの播戸選手が翌日練習後、大阪から見舞いに来てくれる。ありがたい。

●9月20日
だが祈りも届かず9時21分。お父さんから「ダメでした」と。絶句!!
昼休み。悲しい話を部員に伝える。ただただ泣くしかないできない。
◇10日ぶりに我が家に帰った〔ます〕は安らかないい顔。
〔ます〕はいつも穏やでイヤ味を言ったり人を傷つけたりしたのを見たことがない。
仕事は手を抜かずまわりへの気遣い、気配りは痛いほどできる。
〔ます〕のきれいな心のまま「美しいきれいな顔」で戦い疲れて眠っていた。
19日に部員との面会後、夜中に「ダメです」とまたも「宣告」を受けたそうだ。
お父さんが「和成、、明日な、播戸選手が来てくれるで!」と耳元で話すと
右肩を動かし起きようと朝まで頑張ったらしい。

お通夜も告別式もたくさんの仲間に囲まれ旅立った。
悲しみの中でも毅然とした部員の態度、立ち居振る舞いには感銘。
小学、中学の多くの級友にも囲まれた〔ます〕の人柄の良さがここでも表れていた。
[和成]・・・和を以って事を成し遂げる
その人の価値は「亡くなってはじめてわかるもの」とよくいわれる。
名誉、財産、地位ではなくどれだけ多くの人々から「惜しまれ」見送られたかで決まる。

学校の計らいで1年後の「卒業式」には笑顔の〔ます〕がいたそうです。
その後の月命日には同級部員の誰かが〔ます〕の部屋に。
大好きだったAKBの曲もいつも流れ、戦った琴丘ユニホームもポッキーもそのまま。
「成人式」も部員全員が集合。
いつ行っても半分照れた〔ます〕らしい笑顔がそこにある。
ご両親曰く「和成はもうこの世にはいませんがたくさんの息子が我々にできました。
この子たちの成長を楽しみにしてます」と。
またいっぱい悪ガキ連中がお邪魔しますがよろしく。

ーー合掌ーー
※平成28年9月20日午前9時21分記

 

 

星になった教え子(2)

〔ます〕を見送った3か月後。
*11月の練習中、走り方がおかしいので医者に行くようにすすめるが「接骨院では
大丈夫と言われました」と、でも見るからに痛々しく頑張る1年生がいた。
それが〔石原歩〕。
琴丘サッカー部のスローガンである何事も「一所懸命ひたむきに」
モットーである「人のため、チームのために」さぼったり手を抜いたりはしない。

*冬休み最後の練習日「大丈夫です」しか言わない〔歩〕に「病院で検査をしないと
年明けの練習に参加させない」と強制的に大きな病院へ行かせる。
その夜、電話口では〔歩〕の涙声。診断は「骨肉腫の疑い」と。絶句!!

*翌日30日。朝一番でみぞれまじりの寒い中〔歩〕の所へとんでいく。

*正月3日。明石ガンセンターに入院をする〔歩〕を樽本家で「壮行会」を開く。

*翌4日から長く辛い闘病生活、抗ガン剤治療が始まった。
寒かった季節が病棟の窓の外はいつしか春が、、、でも治る気配がない。
私が行くと「たるさんが来るからちゃんとしないと」と準備して明るく気丈に。
私が帰ったあとはグッタリと寝込んでたそうだ。
苦しくつらいはずなのに気を使ってくれる。〔歩〕らしい。
二人の会話内容は病気の話は禁句。夢を語り世間話やバカ話などたわいもない話。

*3月末悲しいかな琴丘から転勤話が、、、このタイミングでそんなバカな。
管理職や教育委員会にも頼んだが、、、〔ます〕も〔歩〕も置いて行くなんて。

*5月の連休に退院という言葉を信じて〔歩〕は戦い続ける。
だが試す抗ガン剤が効かない。医学ってこんなものかな(不信感が)
それどころか「膝から下を切断」という酷な宣告。これでもか、、と〔歩〕を襲う。
それでも会うと「ペースメーカー装着の俺と義足の〔歩〕とサッカー指導にいこう、
審判をコンビでやるか?パラリンピックでは金メダル狙うか、、」
顔にこそ出さないが恐怖で胸が張り裂けそうだったと思う(辛いやろうに、)

◇残酷な手術前。
一時帰宅を許可された日。樽本家で再び「壮行会」を。サプライズ3つ用意。
(1)つめは私の得意料理「お好み焼き」
(2)つめは樽本宅でサッカー仲間が待ち受ける。
(3)つめは〔歩〕の香寺中の先輩で琴丘高入学志望動機だった「あこがれ」の人。
播戸竜二先輩が練習後大阪からかけつけてくれた。
ユニホームのプレゼントや一緒に写真をとったりサッカー話に華が咲いた。
竜二はネガティブな話を一切さずふつうに接してくれた、さすが。
〔歩〕の嬉しいそうなが顔が強烈に残った。いい一日だった。

*それも束の間。すぐに過酷な現実へ。
片足切断後も見舞いに行く度「目標は琴丘へ戻るぞ。修学旅行に行くぞ」
人目に触れることさえ恥ずかしいはずなのに無神経にも無理難題を(すまん)
だがそれに応えるように琴丘高校へ1週間通学。でも、、、、
この時ほど琴丘高校にいたかったと思ったことはない〔歩〕のそばに、、、、

*一向に症状はよくならない。石原家はついに決断してかすかな可能性にかけ
「金沢大学病院」へ転院。その頃はまた寒い季節がやってきていた。
金沢へ見舞いに行くと義足で颯爽と歩く姿をたるさんに見せると必死にリハビリ。
その姿が「動画」にあった。かっこう良かった。

〔歩〕は現実を受け入れ自力で生きる道を選ぶ。
少しでも日常生活ができるようにと香寺から明石までリハビリに通う。
※ここまで頑張れる17歳はいるだろうか、、、しかも笑顔で。

*新しい年を迎えるが病院からは「延命治療に入る」と。
家族は〔歩〕にはそのことは伝えない。だが〔歩〕のことだから気づいてるはず。
高校は琴丘、市姫と違えども私のできることをしなくては、、、
クラスメイト〔A子〕。〔歩〕が入院中もあえて隣の席になり〔歩〕の机を拭いて
帰る日を待ち続け、授業ノートをとり私が見舞いに行く時に手紙とノートを託して
奇跡の生還を願う〔A子〕に早速相談。
急きょ「たるさんクラス」を作る。クラスメンバーを募集。〔歩〕が委員長。
〔歩〕にメンバーと役員を知らせると「僕が委員長ですか?」と照れくさそう。

*終業式あとに「第1回クラス会」(3月20日)
その頃の症状はなおも悪化、起きることさえ厳しい。呼吸器も常時必要。
内臓各箇所に水がたまり心臓を圧迫。クラス会参加はムリかも、、、、、
でも〔歩〕は「笑顔」で車椅子でやってきてくれた。
大好きな仲間、先輩たちとの「クラス会」そこには涙も暗さもない。
明るくギャグ好きな〔歩〕がしょうもない芸やお笑いに思い切り笑ってくれた。
楽しいことは時間が過ぎるのが早く、あっという間の1時間。もっともっと、、、
会の準備に奔走してくれた〔A子〕は保健室で布団をかぶって寝込んでいた。

*その夜なおも一段と悪化。医者からついに「日にち」を切られた。
そこで〔歩〕と石原家は病院を出て自宅で家族と暮らす決意をする。
私の三女(好美)がつきっきりで石原家にいて〔歩〕を支えてくれた。
数日と宣告されてから約1ヵ月家族と過ごしお父さんといっしょにお風呂まで。

*5月2日
姫路高校で授業の間、悪い予感がして携帯を見ると○○病院へ緊急搬送と。
姫路高校の生徒に事情を話しとんでいく。そこには集中治療室で戦う〔歩〕。
だが呼びかけには応じてくれない。〔ます〕と同じ〔歩〕にも涙があった。
悔しい、悔しいやろうな、何でこんないい奴が、、、
〔歩〕が悪いことでもしたか、、、?
気になりながら姫路高校へ戻る車中「訃報」を聞いた。涙で前が見えない。

※告別式は「第2回クラス会」になった。
クラス会の参加人数は小、中、高校の仲間、級友などものすごい数。
ホール、玄関にも入りきれず式場を取り巻き延々と焼香が続く。
私が弔辞を読ませてもらった。
〔歩〕は笑顔、気配り、優しさ、頑張りなど何をとっても最高の教え子やった。

*今〔歩〕は大好きな秋祭り、屋台が奉納される神社横でみんなを見守っている。
ゆっくり語れる座石がありそばを播但線が通り一望できる素敵な場所で。

亡くなって初めての〔歩〕の誕生会は
お母さん曰く「今までで一番盛り上がった最高のバースディ」だったそうだ。
〔ます〕のおうち同様〔歩〕のおうちもみんなの「たまり場」になっているそうだ。
私から「あまり迷惑かけるなよ、遠りょしいの〔ます〕〔歩〕が困ってるぞ」

ーー合掌ーー

 

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たるさんの部屋

*今回は私が43年間機会あるごとにおかあさんへ伝えたことをまとめました。
平成16年から今も続いている「子育てママ教室(塾)」をはじめ
「地域教育講演会」「あすなろ教室」「職員研修会」などを持ちましたが
その時にテーマにしたものを列挙しました。

<子育てのポリシー>
・悪い子どもは絶対にいない、子どもを悪くする大人はいっぱいいる。

<子育ての基礎,基本>
・子どもは「親に愛されてる」という幸福感が絶対にいる。
・子どもは「親がそば」にいてこそ楽しく嬉しい。
・子どもは「親の愛情」があって初めて落ちつく。
・子どもを「愛するとはかかわる」ずっと関係を持ちつづけること。

<家庭(躾け)基礎、基本>
・「おはよう」は明るくハッキリと「おやすみ」はおだやかに。親から。
・「ありがとう」と、ねぎらいが飛び交う家庭に。
・子どもが悲しいのは「夫婦ゲンカ」と親の「不機嫌な顔」
・子どもは家を出ると家のことを忘れるが「不登校生」は家のことが忘れられない。
・物を壊したり大事にしない子どもには説教は通じない。「親の愛情」しか。
・子どもにとって家は「ゴロゴロしてゆっくり休める、居やすい処」
・親の仕事(家庭の仕事、家事)を一切手を抜かない。
・整理、整頓がなされた家に「きれいな心」が育つ。
・中学生が考査中は親もテレビを見ないように。親も書物を読む絶好のチャンス。
・子どもは手書きが必要。繰り返し書かせる。聞きっぱなし、言いっぱなしはダメ。

<問題行動、非行>
・問題行動は異常なことをしないと認めてもらえないから起こす(試してる)
・親が「この子は困った子や」と目や態度に出るといち早く子どもは気づく。
・イジメは小学3、4年から、不登校は中学1年ごろから多くみられる。
・「万引き」は初期に何とか見つけたい(「万引き」は一過性)
・子どもには「照れ隠し」がありうまく表現できないことが多い(傾聴)
・女子が悪いのは父親に原因が多く男性の「良さ、価値」を感じないから。
・誰もがすべきあたりまえの日常はきちんとさせる(忍耐、我慢強く)
・子どもがすることには時間がかかり、手直しもいる(イライラせず気長に)
・「おまえのために、誰のために、、、」という恩着せは子どもは嫌う。
・親の態度、言葉で「やる気や目標」を失い、急に「不勉強」になる。
・忘れ物に長々と説教しない。「何で忘れた?」は答えにくい。
・親が非常識を「恥ずかしい」と思わない限り子どもも非常識な行動を繰り返す。
・30年前には女子のアル中も登校拒否もほとんどいなかった(なぜ?)
・「産まなければ良かった」と親が思いかけた時子どもは崩れ始める。
・「おまえなんかいらない」と親が口に出した時から非行に走り始める。
・「もういい!」と親があきらめた時、子どもはどこへ行く?
・子どもの命の根幹を切った言葉を口にしない(一生心に傷となり残る)
*誰をどう信じて生きればいい<子どもの心の叫びを聞け!>

 

<不登校の3パターン>
・優等生でまじめ  ・親との関係性のまずさ ・細やかな神経の持ち主。
<親のアイデンティティ>
・オヤジの様な父親に、おかあさんの様な母親なりたい。と子どもが思うか?
・親の生きざまを見せる。正直に生きる。人のために生きる後ろ姿を見せる(道標)
・頼む時は「ごめんやけど、、、悪いけど、、、助けて、、困ってる」と頼む。
・毎日同じことで腹を立てない(聞かなくなる)
・月に1、2度は向き合ってきちんと叱る(親の心が落ちついた時)
・興奮して怒ると言わないでいいことを言ってしまう(口は禍)
・生きてる限り「人助け」身を持って「世のため、人のため」示す。

<3つ子の魂、、、>
・3歳まで「過保護」と言われるくらい力いっぱい可愛がって甘えさせて。
・「甘える」と「甘やかす」とは違う。
・幼い頃に「愛情」が足りないと親離れできない(満たしてあげて)
・ギャングエイジ(5、6歳)に遊ばせる。徹底して(遊ぶ=生命力)
・チャイルドエイジ(7、8歳)が学力の基礎、基本をつける時。

<第二反抗期(思春期)>
・いろんなことに気づき、疑い、大人や社会への不信を持つ時期。
子どもが急に悪くなったわけではない(成長段階)
・幼い頃はあんなに「可愛く素直やったのに」は禁句(繊細な時期だけに)
・親も昔は子どもであり反抗期があったことを忘れない(誰もが通る道)
・毛虫が気持ち悪いでは「きれいな蝶」は見れない。蚕(かいこ)が見たくもないなら
繭(まゆ)もできない。すると絹の着物は作れない。
・反抗期はいつか過ぎる(一過性:だから親の言動で子どもの傷を広げないで)

<オカン、おかあさん、母>
・「理屈ぬき=無償の愛」で子に優しく接する、寄り添う。
・「何があってもあんたは私の子ども」絶対にあんたを守る。
・子どものために手を抜かず「子どもを信じ」振り向かずに前へ進み続ける。
・日本がアメリカより非行が少ないのは「オカン、おかあさん、母」の存在。
添い寝、抱っこ、おんぶ、手をつなぐ、川に字で寝る→安心感、情緒の安定。
・おかあさんは最強のカウンセラー。
・親の取り替えはきかない。

<食事、家事>
・朝ごはん、弁当の用意ができる家庭に非行に走る子どもはまずいない。
・子どもの仕事は勉強というなら家庭の仕事、家事に一切手を抜かない。
・この子に「何を食べさせてやろうかな?」という間は大丈夫。
・今、孤食経験の子どもは実に43%。
・食事は楽しく、できるだけ多くで食べるのが最高の献立。
・子どもは力いっぱい動いて遊んで腹をすかすことが仕事。
・理由があり食事が作れない時は親の智恵、工夫がいる。
→献立表を作る、弁当に心を込める、伝言、メッセージなど添え心を通わせる。

<楽しむ>
・育児書、専門書、評論に振り回されないように。おかあさんらしく。
・おかあさんはおかあさんです(そんなおかあさんが子どもは好きなんです)
・待ちわびて生まれて来てくれた瞬間のあの喜び「生まれてくれてありがとう」
・何度も何度も子どもの「笑顔」に助けられて「ありがとう」
*全てひっくるめて「感謝」「いてくれるだけ幸せ」

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*津田ホームページ* 「たるさんの部屋」

NPO法人スポーツクラブエストレラ
エストパークの基礎工事が進み防柱約40本エスト「みどり色」にみんなで塗装。
徐々に進む現場11月完成が楽しみ。
今回「たるさんの部屋」はエストレラ立ち上げの経緯を掲載したい。

1996年津田SC社会人が全国クラブチーム選手権優勝(アマチュア日本一)
翌97年琴丘高サッカー部が現Jリーガー2名を擁し滝川二高と全国をかけて、、
あと一歩のように感じるが、、、姫路がサッカー後進地であることに変わらず
阪神、神戸地区どころか他地区にも置いていかれる危機感を長年持っていた。
その頃は私が高校に力を注いでいたため津田少年には指導が手薄で低迷。
白鳥(下山理事)安室(当時指導者森、清水:現エスト)が台頭し姫路をリード。
だが折角育てていただいた子どもたちが高校まで繋がらない歯がゆさを感じていた。
ジュニアユース(中学年代)を強化しないことにはその先は、、、、。
西播高校は琴丘高、飾磨高、太子高の三校が兵庫でベスト4~8あたりに位置。
琴丘高、飾磨高は交互に滝川二高に挑み決勝へ進出するが、、、、。
松本(飾磨監督;現エスト)前田(太子監督)両先生も私と同じ悩みを持っていた。
前田先生が琴丘高校赴任。私は高体連(技術委員長)の強化をするので先生には
姫路のジュニアユース、ユースの強化を図ってほしいと懇願。
前田、松本両先生は兵庫県国体監督を歴任するなど指導力はトップレベル。
お二人は設立意義やビジョン、コンセプト作りに夜を徹し丸2年かけて立ち上げへ。
設立メンバーには木村理史(飾磨高卒:現ユースコーチ)森啓三郎、清水靖志
(福崎高卒;現Jrコーチ)そこへ木村祥典(白鳥→福崎高卒:現姫路技術委員長)
中山(福崎高卒)高須(琴丘高卒)前田雅、溝口(太子高卒)らがコーチとして参加。
前田先生の行動力、発想、企画力、加えて人脈から人を動かす力はダイナミック。

※〔2000年〕エストレラ誕生
世代や国境を越えて温かい交流の場と一人一人が目標にチャレンジでき感動できる
機会に出会えるクラブライフを「ビジョン」に掲げて誕生。

〔2001年〕NPO法人化
理事長には当時姫路サッカー協会長宇野津先生に就任していただいた。
先生は生涯プレーヤーでもあり指導者でもある現場主義。気配りが素晴らしく
「たるさん、姫路のサッカーのためにいつもありがとう」と労いの声をいただいた。
市、県協会特に社会人連盟に強いパイプのある前田晋吾氏が副理事長に就任。
理事にはマーケティング、情報、リサーチなどに詳しい小野氏にアドバイスをいただき
高藤氏には「なでしこ」など女子サッカーの情報源として就任を依頼。
事務、裏方全般には藤田ルミ先生にエストを愛しむように支えていただいた。

選手たちは当初悪環境にも「明るさ」を持って「夢構想」に向かっていた。
ジュニアユースは関西大会常連の力を付け全国出場。ユースは二度も全国へ。
選手、人としてチームとしても兵庫を代表するクラブに成長していった。
チームの根幹である「利他の精神」「感謝、リスペクト」の魂は前田、松本先生の
教育のポリシーが選手に浸透している証である。

前田先生のアイデア、企画力は止まることを知らず「フランス遠征」を実現。
トップレベルの海外指導者や全国屈指の指導者を招き研修会、講習会を開催。
スポーツ探検隊では子どもに「夢」を与え、障害者スポーツ支援にも展開
それがパワーズ(知的障害者サッカー)誕生へと繋がる(福本理事監督)
総合型スポーツとしてはテニスクラブ、お散歩クラブも充実(水田理事)
健康を願う人々には健康教室(矢野さん、高田理事、久呉さんら)を開講する一方
医学講演会(中村理事:脳外科医、久呉理事:小児科医)を開催し地域貢献も実現。

エストの現場に携わることできない私はエスト誕生の年(50歳)に
自分を変えるために「カウンセラーになりたい」と老体にムチ打ち勉強を開始。
同時に「子育てママ(塾)教室」開講。白鳥FC、津田SCの保護者たちに支えられ
カウンセラーの実技として研鑽。その様子が各方面に広がりPTA、あすなろ教室、
地域教育講演会、指導者研修会や学校内の研修会講師として招かれるようになった。
資格を6年かけて修得。今は様々なユースチーム対象にメンタルセミナーを実施。

※こうした15年以上のエストレラの活動、取り組みに対しての評価結果が
toto助成金」平成28年度全国で最高額を受けることとなる。

「プロ」作るものでなく生まれるもの
〔プロ〕とは人から尊敬される人物、チームであるべきというのが私の持論。
自分の楽しみ、趣味、鍛練は自前の「会費」アマチュア精神で。
日本サッカー界のアマチュア最高峰がJFL。だからエストレラの目標はJFL。

理念は「姫路のサッカーを何とかしたい」
私はキッズ、少年、ジュニアユース、ユース、高校、社会人のカテゴリーを自ら
立ち上げ、指導し今も実践し続けている。
その時間43年余り。かけた時間と情熱は誰にも負けないつもり。
「たるさん、姫路にプロ誕生はまだか?、、、」とよく聞かれる。
私はまずはサッカーファミリー(サッカー家族)を作ること。
そのファミリーを大家族にすること。
サッカー少年の親、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、仲間、友だち
近所のおっちゃん、おばちゃんたちが「あんたらやったら応援したるで」と。
立ち居振る舞い、言葉、挨拶、「きれいな心」で町の方々との心の交流が最優先。
「魂込めて」プレーして見る側が感動していただくことで地域の方々に理解され
ファンになっていただき支援が始まってこそ〔プロ設立〕の権利が得られる。
これがないと単なるアマチュア〔プロ〕として続くわけがない。
「少ししかお金出せないけど、、、」とポケットマネーから出資してもらえる。
そんな人が徐々に徐々に増えていき「エストレラはわが町のシンボル」となると
おのずとその先は〔プロ〕へと誕生となる。
お城の石垣のように一つづつ一つづつ、丁寧に丁寧に土台から積んでいき、
世界遺産天下の名城「姫路城」がそびえ立つようにたくさんの人に支えてもらう。
決して「あわてない、あせらない、でもあきらめない」

私には2000人近い(津田、福崎、琴丘、市姫など)たるさんファミリーがいる。
教え子たちには「一生懸命にひたむきに」「人のために」と伝えてきた。
そこへエストレラも加わってくれれば5年後に1万人会員の大家族(ファミリー)に。
10年後に2万人会員、、50年、、、、ひょっとすると100年以上かかるかも。
だが何年かかろうがそんなことは問題ではない。
みんなが「夢」を受け継いでさえくれれば、、、、繋がっていく。
ヨーロッパでは人口4、5万人規模の小さな町に愛される〔プロ〕が山ほどある。
姫路もサッカー文化にしたい。まずは姫路から日本各地へ発進したい。

人と人が「」でつながると本当に強い絆になる。
退職して4ヵ月の今思うことは人とのつながりをあらためて気づかされる。
次はどんな人と、、、(ワクワクの日々)
今まで大変な苦労をされたエストレラスタッフ、関係者へ「感謝とお礼」を込めて
エストパーク建設や環境整備、組織、人の集まりなどに全力を尽くしたい。
そしてエストレラ立ち上げの「ミッション」である
サッカーを通して姫路に笑顔を増やし、姫路を愛し誇りに思える町に変えたい。

たるさんの部屋UPしました

たるさんの部屋

ゴールデンエイジ(小学高学年)

琴丘高勤務時代、平成17年からゴールデンエイジ児童対象に「J塾」を開校。
心身とも輝き成長する時期に「人間のプロめざして」月2回琴丘高サッカー部員と。
整列から「黙想!」きれいな「挨拶」から約100人が一つにランニング。
まわりからはよく「たるさん、自衛隊か!」とイヤミを言われるランニング。
決して「並べ!そろえろ、声を出せ」と訓練したり強制はしない。
走ってる前の部員を直視し列を揃え、気づき、息づかいを感じ、足音に耳を澄まし
五感を生かして「心」を一つにして走る(福崎、琴丘から市姫へと伝統に)
少年、高校関係なくグランドでは「一所懸命、ひたむきに」戦う姿勢を感じさせる
というのが目的。最後に整列、黙想!挨拶、グランド整備やトイレ掃除を学ぶ。
メンタルセミナーも不定期に開催「気づきや振り返り」を。
夏は「海体験」冬には「年末合宿」で裏山登山。寒さの中で日の出を迎える。
J塾卒業メンバーのほとんどがエストJrや津田Jrへ進む。
高校でも姫路地区で中心選手となり活躍。「J塾やってよかった」と。
残念だが姫路高校勤務中は一時中断となったが本年度「こころ塾」として復活。
津田以外の他のチームのゴールデンエイジもぜひ参加し「心の鍛練」を。
*詳細は津田HPの「こころ塾」参考に

「J塾」では交換ノートもおこない2年間で多い者で5、6冊になっていました。

 

「おかあさん特集」*J塾交換ノートから

*カレー
おかあさんが仕事から帰ってきたが、かぜひいて熱が出てねこんでしまった。
ぼくはせんたく物をとりいれてからカレーを作ろうとがんばった。
おかあさんが気がついて起きてきた。「おいしい」といってくれたけど
ぜったいにおかあさんのカレーの方がうまい。
夜ねていてもおかあさんのかぜが気になった。

*母の日
「おめでとう」といおうとしたけどおとうさんとおにいちゃんがいてはずかしいので
いえなかった。寝る前にふとんの中で「おめでとう」と言ってねたら
夢の中におかあさんが出てきた。

*ごめんね
ぼくが宿題もせずにおそくまで遊んでいておかあさんにしかられた。
「ごめんなさい」がいえずなかなかねられなかったが、おかあさんがそーっと
部屋に入ってきたのでねたふりしてたら「今日はおこってごめんね」と
頭をなでてくれた。おかあさんが部屋から出たあと「ごめんなさい」といえた。

<裏話>
この子のおかあさんが私が主宰している「子育てママ塾」に来てくれました。
「怒りすぎた、感情で怒った」と、あとで「しまった!」と思ったら
可愛い寝顔見て「ごめんね」と言って下さいっと話をしたら、
早速実行されたそうです。(いいですねぇ)

 
*J塾交換ノートでは週末おかあさんが書くコーナーがあり、以下は
心あたたまる親子のやりとりです。今もこのおかあさんと3人の子どもが
私の誕生日を祝ってくれるなど交流があり「この親ありてこの子あり」です。

<おかあさんから>
前から時々、自分でユニホームを洗ってくれていたけど
「J塾」に入ってからより一層自分で進んでユニホームを洗うようになったね。
きれいに洗えてるストッキングを見ておかあさんは涙が出ました。
一生懸命洗ったんだろうな、、、手は擦り切れていないやろうか、、、
おかあさんが洗うより数段きれいになっていたんで恥ずかしくなった。
この気持ちこれからも大切にね。

<子どもから>
けさ、4時に両親は法事で静岡へ行ってしまった。
おかあさんがいないので大いそがしでした。
おかあさんがいないと「たいへん」だと思い知らされました。
朝のうちに昨日のせんたく物を洗濯機に入れてまわして学校へ行きました。
帰って急いでせんたく物をほしました。「夜には帰るから、、」と言ってたけど
思ったよりおそく本当に忙しい一日でした。

<おかあさんから>
「家はどうなってるんだろう?」と心配でしたが、
朝ご飯をタイマーで炊いてくれたり洗濯物を干してくれてたね。
干した洗濯物を一つ一つながめながら「工夫して考えながら干したのだろうなあ」
と思いました。
残りご飯をボウルに入れてきっちりラップして冷蔵庫に入れてたのを見たときは
感動しました。おとうさんが「おかあさんいなくても大丈夫やな」って。

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ゴールデンエイジ(小学高学年)の子を持つ
*おかあさんへ*

・子どもを深く思い過ぎると苦しめるかも知れませんね(負担、プレッシャー)
・「正しい」からって子どもに何を言ってもいいはずないですね。
・「嘘」をつくの子は:いい子でいたい:親を悲しませたくないことからの嘘も。
ふだんから安心して良いことも悪いことも話せるような家庭の雰囲気作りを。
・「あんた、なんでそんな性格?」と言わないで、、、だってお母さんの子どもです。
・お母さんだからこそ、他人にわからない我が子のことを見極められます(か?)
・子どもの苦しみはお母さんの「支えと優しさ」に触れて乗り越える。
・もし自分の子どもが誰かに何かしらで「問題児」扱いされても一切気にしないで。
そう言った人(尊敬に値しない)が逃げ出すために作った言葉に過ぎないから。
そんな人や噂話、信用のおけない話で我が子を責めることは絶対にしないで下さい。

★私が生徒と向き合う時心に決めてること★
*「悪い子はいない、悪い子にする大人はいっぱいいる」
性善説とか性悪説とかの問題ではなく子どもはいいものに決まってる。
誰一人「悪いまま一生終わりたい」と思う子どもはいない。
子どもが悪いことをするのは「教師力」や「親の愛情」のお試し期間。
悪いことやってみて、その時無視したり頭ごなしに押さえ感情だけで怒ったら
(あぁ、この先生、うちの親はあかんわ、むり)と思い本格的に「ワル」に走る。

樽さんの部屋UPしました

たるさんの部屋

*雨などで体育実技ができない時に「メンタルセミナー」をよくやりました。
内容は生徒からの意見、アンケート、レポートが中心でした。
特に「最近むかつくこと、腹の立つこと」書かせるテーマにしました。

○アンケートのうちに一つ
「題:家がおもしろくない、帰りたくないと思うときは、、、」
そのうちの「ベスト5」をまとめてみると
・夫婦げんか ・家でホッとできない ・おかんのぐち
・最後まで話を聞いてくれない    ・誰のために(おまえのために)

●今回の生徒のレポート「家族をテーマ」で括ってみました、特に「母親」で。
まずは少しご紹介します。
*「ようわからんけど、、(会いたい)」
親が離婚して3年。
お母さんの手料理の味が忘れつつある。
すごくさびしい。
いっしょに暮らしているおとうさんが「最近お母さんの味ににてきた」と。
うれしいやら、、、かなしいやら、ようわからん。

 

*「抱きしめて」
おかあさんは小さい時から、なにかあると「ぎゅー」とだきしめてくれた。
大きくなって恥ずかしいから「やめて」と言っても「ぎゅー」と。
「おかあさんは、あんたをこうするのが一番好き」
最近おかあさんはおとうさんやおねえちゃんとよくケンカしている。
学校から帰ったら、せんたく物たたみながら泣いていた。
後ろから「ぎゅー」とおかあさんをだきしめた。
やっとおかあさんに返せた気がした。

 

*「いっしょにいたいのに」
おかあさんはふつうに話しててもいつの間にか説教にかわる。
「いつまでも、そうしとらんと二階へ上がって勉強しぃ」
もう少しいておかあさんと話ししたいのに。
だんだん最近いっしょにいたいと思わなんようになってきた。
「はよ、帰ってきぃ」と言われるけど寄り道したくなる。
こんな気持ちおかあさんはわからへんやろうな。高校になって必要なこと以外
話さんようになってすぐに自分の部屋へ上がる。でも一人はさびしい。

 

*「おはよう」
おかあさんは、朝「おはよう!」ってどんな時も明るい声で。
家を出る時は「いってらっしゃーい」と大声で。高校生になり近所に恥ずかしい。
今日も「寒いけど、がんばれー」って手を振って。
「しんどいなぁ、行きたくないなぁ」と思うけど背中を後押しくれる。
返事はしないけど、私の気持ちはわかってくれてるよね。
私の夢は恥ずかしくて言えないけどおかあさんみたいになること。

 

*「大切なもの」
私の家は自営業です。
おかあさんはおとうさんの仕事を手伝っています。
働くだけでもたいへんなのに家事を絶対に手を抜きません。
どんなに疲れていても手作りで食事を作り洗濯機をまわし掃除機かけて。
「今日は何かあったん?」といつも私の話を聞いてくれるし
特に「今日は学校でたるさんどんな話したん?」と聞いてきます。

ダメなことをしたら真剣に本気で怒ってくれます。
でも「あぁしろ、こうしろ」と命令されたことがない。家事を手伝おうとすると
「これはおかあさんの仕事、気ぃ使わんとき」といつも返してくる。
おかあさんのそばにいたいのに。
おかあさんは幼い頃に両親と死に別れ「おとうさんと出会ったから
今の幸せがあり、あこがれの家庭というものができた」と。
おかあさんは「私の一番大事なものはおとうさんとあんたらやで」が口癖。
たるさんに「会いたいわ」っておかあさんが。。。

 

*「いつまでも」
恥ずかしいけど、時々おかあさんと寝ています。やっぱし落ちつく。
ただ一緒に寝てるだけやど、その時間がサイコー。

 

*「家族会議」
兄弟けんかして、そのせいでおとうさんとおかあさんが大げんか。
おかあさんが「私は家を出る」。
泣きながら兄弟でおかあさんを止めた夜。みんなの思いやふだん言えなかった
ことをいっぱい兄弟で話して、おとうさんとおかあさんに聞いてもらった。
おとうさんとおかあさんも泣きながら黙って聞いてくれた。
おかあさんが「冗談でも家を出るって言ってごめん。私は絶対にあんたらとおる」
その日以来家族が一つにまとまった気がする。その日が今までで一番。

 

*「特効薬」
最近のおかあさんとのベストディ。
ちょっと前、熱だして学校休んだ。おかあさんは仕事休んでそばに一日いてくれた。
「大丈夫?何か飲む?食べれる?」ずっと気にかけそばにいてくれた。
久しぶりにおかあさんに甘えられた。おかあさんの「大丈夫?」が一番の薬。

 

*「おかえりー」
私が帰ってもみんな仕事やから「おかえりー」って言ってくれる人はいない。
おかあさんが仕事がなく休みの日は「おかえりー」って言ってくれるので嬉しい。
朝「おかあさんな、今日休みやで」って聞いた日は帰るのが楽しい。

 

*「バースディーケーキ」
誕生日の朝、わざわざ「もう大きくなったんやからケーキ買ってこんからな」と。
家に帰って冷蔵庫開けると「おめでとう」とプレートに書いてあるイチゴのケーキ。
いっつもこうしてしぉーもないことするんやから。でも大好きや。

 

たるさんの部屋UPしました

たるさんの部屋      「生徒という名の先生」
ーー「母親特集「笑顔」その1」ーー

高校時代の教え子「A子」との出会い。
A子が中学2年生。母親が4人の子どもを残してこの世を、、、、
それから年老いた祖母とともに幼い3人の弟の母親代わりをして家族を支える。
なのに不幸に不幸が重なり今度は父親の仕事中に大事故が襲い下半身不随になり
長期のリハビリ入院を余儀なくされる。

そんな中でもA子は学校生活を誠実に過ごし一度家へ帰宅して夕飯の用意をして
再びクラブ活動に参加しその上生徒会活動もこなしていた。

「A子」との交換ノートの一節です。
私はもっと年をとりたいです。
弟たちよりもっともっと年が離れていたら、、、とよく思います。
でもいくら努力しても母親にはなれないんです。姉でしか。それが悔しいです。
弟たちの前ではしんどそうな顔や暗そうにはしないと心がけています。
学校でいろいろあってもできるだけ笑顔でいます。
私が疲れた顔やイヤそうな顔をすれば弟たちは不安に感じるからです。
長男(B男)の高校の入学式と三男(D男)の入園式は同じ日でしたが両方
出てきましたよ。
日曜日は(D男)の運動会でした。(D男)の好きなエビフライを弁当に入れて
親子の演技も一緒にやりました。添い寝もします。
二男(C男)の野球部のユニホームに背番号を縫い付けました。
やっとレギュラーになりました。いつも2人の弟の弁当は入れます。

(B男)も(C男)も時間があれば(D男)と一緒にお風呂に入ってくれます。
できるだけ兄弟力を合わせておばあちゃんを助けます。
ところでたるさん。話は変わりますが私は私自身の中に「甘え」がなくなると
どれだけ「楽」になるかとよく思います。もっと強くなりたいんです。
高校から行った「勉強合宿」みんな「おもんない、しんどい、はよ帰りたい」と、
ずっと言ってました。
でも私はもっともっといたかった。弟やおばあちゃんには悪いけど、、、
勉強ができる、家事をしなくていい、ご飯の準備や献立を考えなくてすむ。
自分のことができる時間が貴重であり、ありがたかった。
早く30歳ぐらいになり看護婦として働きおとうさんのそばにいてやりたい。
そして弟たちの成長がみたい、だから時が早くすぎてほしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*交換ノートの冒頭「A子」の言葉
たるさん。このノートには私の「ぐち」を書いてええやろうか、、、
親や家族の文句、「ぐち」言える(相手がある)って幸せやなぁ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「A子」との交換ノートは3冊続き、何度涙して読んだかわかりません。
当時私は30歳半ば教師力の乏しい頃。この交換ノートで何度も救われました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「A子」は私のクラスでも学年でもなく生徒会の美化部長として清掃点検し
得点化して優秀クラスを表彰をするというシステムを決めて実施した生徒。
完璧オール100点をめざした私はある日「96点」という点数に激怒して
納得できず生徒会室へ。
「A子」:「ゴミ箱にメモ用紙が丸めて捨ててあった」私:「自分で確認した
掃除後確認し生徒会が点検見回りの間に誰かが捨てた、、」とひつこく文句。
「A子」は泣きだしたが(大人げない)、そのあと「A子」:「ここまで
必死にいう先生おらんわ」と。そこから交流が生まれ交換ノートへと。

 
ーー「母親特集「笑顔」その2」ーー

少年や高校の朝練がない時や早く終わった時は天気が良ければ廊下の窓や
教室のカーテンも窓も開ける。教室は「きれいに」というのが私のポリシー。
黒板やごみ箱を確認し、後ろの黒板の落書き(ほとんどないが)を消して
掲示物は4スミきちんと止める。ようするに「きれいに」して生徒を迎える。

早く学校に着く生徒もいて一緒にきれいにする。それがクラスに広まっていく。
その中にいつも「笑顔」で迎えてくれる生徒〔A子〕がいた。
朝から気持ちのいい「笑顔」での挨拶。いつもどんな時もサイコーの「笑顔」

*卒業式〔A子〕からの手紙

私はたるさんがいうほどがんばっていなかったですよ。
でも「笑顔」でいることは少しは気をつけていました。
「笑顔」でいないと「大丈夫」と言っていないとまわりのみんなが心配するから。
私はみんなに心配されるとどこまでも甘えてしまうから。
でも、こうしてたるさんに手紙を書いてる時点で甘えてますが、、、

たるさんは悲しく辛いのに、、、と書いてくれたけど私よりずっと辛いのは
おかあさんだから。病気に負けないで笑顔で頑張ってるのはおかあさんだから。
おかあさんは本当は辛いはずなのに「ありがとう、おかあさんは幸せだよ」
暗くなるはずなのに「ありがとう、こうして〔A子〕や家族といて幸せだよ」

だからお葬式で別れる時も笑顔で送りました。
おかあさんの手を握り「おかあさん大丈夫!私は大丈夫だからね」と。
それは自分に言い聞かせていたかも知れません。
でもそれはそれでよかったと思っています。
だっておかあさんの子どもだしそうすることでおかあさんが喜んでくれるから。

でもうまくいきません。悲しいです、耐えても次々悲しい波がやってきます。
いつもいた場所におかあさんがいません。「ただいま、、、」と帰っても。
優しい妹が大ピンチです。いくら私ががんばっても妹の母親にはなれません。
悔しいですがおかあさんの存在は大きくおかあさんの代わりはできません。

たるさんはよく「〔A子〕らしさを大事にしろよ」と言ってくれたけど
「私らしさ」ってどういうことかまだわからないけどおかあさんと行った大好きな
場所で短大生活を過ごしてみます。
長々とすみません。返事はいいですよ。誰かに聞いてほしくて書いてみました。
3年間ほんとうにお世話になりました。
たるさんも病気なのだから無理をせず多くの生徒やみんなを悲しませないように。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
〔A子〕が朝早く来ていたのは遠い所から本数の少ないバス通学のため。
高校を選んだのはおかあさんが入院している病院が近いから。
行きも帰りも病院でおかあさんの看病し身の回りのお世話を。
家へ帰っては家事仕事を。でも毎日「笑顔」。
お通夜当日も目を真っ赤にしても「笑顔」(泣くだけ泣いたらいいのに)

おかあさんは〔A子〕に「笑顔」という遺産、財産、宝物を残しました。
〔A子〕の「笑顔」が今もよく出てきます。「ありがとう」と手を合わします。
〔A子〕は元気かな?きっとあの「笑顔」で周りを幸せにしていると思います。

 

ーー「母親特集「心配性」」ーー

〔A男〕の反省文

さきほどはすみませんでした。
たるさんは一言も僕に怒らずに(※)「言いたい」こと言って出たけど
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(※)私の言った「言いたい」こととは、、、
俺な(私)、つい最近おかん亡くしたんや(H16、冬)
俺のおかんは心配性でずっとイチイチ何か言ってくる、口うるさいし。
この年(50歳半ば)になっても〔素直〕になれずおかんに文句ばかり言うとった。
でもな、おかん亡くして、子どもの親になってわかったことがいっぱいある。
今朝もな、小学生がまだ暗い中、ランドセルの上にサッカーバッグ背負って
寒いのに白い息を手に吹きかけ6時半ごろ子どもが朝練に向かってるんや。
「たるさん、おはようございますー」と明るく元気な挨拶してくれる。
遅刻した子どもが走って来て「遅れてすみません」と実に〔素直〕に頭を下げる
そんな〔素直〕な子どもにグチグチ怒れると思うか?

朝練が終わって車に乗って行こうとしたら「たるさん、いってらっしゃーーぃ」
おかん亡くして落ち込んでいても子どもに元気と勇気をもらうわ。
俺が子ども、学生時代はこんなに〔素直〕じゃなかった。今は恥ずかしく思う。
〔素直〕になってたらどれでけ「楽」か。
「おかん、悪かった。ごめんな、ありがとうな」と今なら言えるわ。遅いけどな。
〔A男〕がなんで怒られたか知らんが、これがつい最近のたるさんの出来事や。
子どもから教えられるわ。ええ年してオヤジぶっても先生ぶってもあかんな。
書きたくなったら書いて、書きたくなかったらそのまま教室へ行けな。

ーーーーーーーーーーー〔A男〕の反省文(続き)ーーーーーーーーーーー

少し落ちついたので書きます。

最近、家でおかんにぐじぐじ文句を多く言われる。
心配してくれるのはわかるけど、、、毎日や。
昨日はオヤジに言いつけて、なにもわからないくせにオヤジにわめかれた。
あまり腹がたったのでオヤジに言い返したら。つかみ合いになった。
ムカついて家をとび出して友だちの所へ行って夜遅く帰った。

朝学校へ行こうとしたら、またおかんに見つかり、おかんは泣きながら
「おとうさんになんてことするん」「あんたを心配してるから言ってるのに」
僕は「もう、どうでもええ、、、」と思って家を出た。
行く途中、○○高校のやつと自転車でぶつかりそうになりメンチ切られた。
遅刻して学校に来たけど鑑札がついてない違う自転車乗ってきたから
違う置き場所に止めようとして見つかって怒られた。
ムカついてたから「素直」になれず謝れへんかったから怒られた。
遅刻届けもらいに職員室に行こうとしたらたるさんに会った。
今日帰っておかんになんとかがんばってあやまってみます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
当日遠くから〔A〕の行動、叱られてる様子を見てて
「たぶん、こういうことかな?」と思って自分の最近の様子を話してみたら
ドン、ピシャ、あたってた(ビンゴ!)。
次の朝、校門当番で立っていたら〔A〕がやってきた。
いつもより明るく見えたけど、、、おかんに「あやまれたかな?」

たるさんの部屋UPしました

たるさんの部屋
(久しぶり)昭和の良き匂い

今回は「出会った生徒」ではなく、お話していて久しぶりにワクワクする
昭和の良き匂いがプンプンとする同世代(同年代)人物お二人を紹介します。

学生(日体大)時代。健さん(高倉)文太さん(菅原)を観て映画館を出ると
なぜか?背筋が伸び「正義」「義理や人情」が生まれ「男」になれる瞬間でした。
昭和40年半ば。世はまだ暗い時代でしたが戦後復興の兆しも見え将来が明るく
希望が持てそうな時代でもありました。
大学で出会い、同じ職(教員)に就いたすごい同志(F)と出会い今もつながっています。
当時は学校紛争がまだ色濃く残る難しい教育界でした。
(F)とは「生徒中心」に考え、共に悩み、時には体制に歯向かったものでした。
教育について夜を徹して語り、それを形にし行動し実践した大親友です。
私は(F)を人生で只一人尊敬ができ、教師としても「師匠」であると思っています。
退職後も共に進むべき道は変わらず未来の子どものために「夢」に向かってます。

ここからは失礼であり、該当の職業に関わる人々にはたいへん申し訳ない
文章ですが、どうかお許しいただき本音を書かせてもらいます。

私の嫌いな体質はお役所仕事。行政。教師を含めた公務員です。
「慣例に従い」「前例がない」「それは無理」という言葉が飛び交う職場。
やれるやろ!!」「ただやるか?やらないか?」だけでしょ。と言いたい。
上の顔色を見る。会議のための資料やデータ作りに時間を割き、つねに机上の空論。
面倒な問題が起これば逃げ、社会や生徒側や保護者、他の部署のせいにする。
教師(公務員)は現場主義。生徒といてナンボ、グランドに立ってナンボです。
起きた事はメモして整理。生徒との交換ノートで情報を得て互いに信頼関係を構築。
眠れないほど悩み、考えては書き、書いては消し、、、、。決めたら「やる!
(30歳台はほぼ3、4時間睡眠。その結果は死に直面する難病になったが、、)
人間相手だから予定や計画通りいかずハプニングだらけ。ほぼうまくはいかない。
だからおもしろい。うまくいかないからこそ悩み、考え、工夫するものです。
意味なく、何をするかわからないのが生徒。それが子どもなんです。
子どもをバカにしてはいけません。子どもは(損得抜きの)「純粋」だからです。
「純粋」だからこそ全力で真っ正面からぶつかれば受け入れてくれます。
いろんな生徒が(私と同じ匂いが)いるから学校っておもしろいんです。
停学が解除した自分のクラスかクラブの生徒とは、うちで一晩過ごします。
一緒に食事をして時には泊まり起こした事件の背景や家庭環境、友人関係を把握、
「今後はどうするか?」本音を聞かないことには「謹慎解除」とはいえないんです。
こんな私が無事?(クビにならず処分も受けず)退職できたのが不思議です。

6月ある日。グランド、自然パーク建設「地鎮祭」出席の依頼で地元、地域を
回っている時にCゴルフ場のA社長と出会いました。
大親友に出会った以降、団塊世代ではいい人物に会えないまま時が過ぎていました。
久しぶりにA社長は同年代、同期で「男気(おとこぎ)」の匂いがしました。
だがA社長は元役所の局長クラス人物で私の大嫌いな職業の方。
最初は??、、(すみません私の悪いところで先入観、固定観念でみてしまう)
だが話出し出すとおもしろい。挨拶かねて30分面会の約束が、、、なんと2時間。
どんどん二人の間での「人のつながり」が広がる。卒業生の驚きの話から
姫路の浜手育ちから、生い立ち、しがらみまで。話は尽きない。
A社長の市民のために敢えて嫌われ役の仕事を引受けやろうとする心意気がいい。
人に押しつける前に自ら先に身を切る「改革断行」(世の政治家よ、よく聞け!)
初めて会った私にA社長がぜひ紹介したいと人がいると。この社長の紹介なら、、。

 

その人なりは行政の元ナンバー2。姫路市まちづくり振興機構のトップN氏。
A社長の紹介なのでお役所仕事の「先入観」でみることだけはよそうと、、、。
約30分の面会時間。会ってほんの5~6分。A社長が言われたように「いい男」
N氏の心の裏側がわかり読める。互いに同じ感覚で響き匂う、腹立ちまで同じ。
乾いたスポンジの如く吸収して私の中へ話が入ってくる。
初めて会った気がしない。
固いイメージの行政トップがこんなに人間臭く、昭和(任侠)の匂いが。
体育会系。今や死語となりつつある「辛抱、忍耐、我慢」と「根性」をベースに
「やったらんかぇ!やってみなわかるかい!」という「魂」の持ち主。
互いに交わす言葉は「もっと早く出会いたかったなぁ」
でも、今なんです。これからなんです。
N氏とポジションこそ違いますが私は現場で残る人生
「夢のある姫路のまちづくり」のために一緒にやっていきたいと思いました。
2時にお会いして帰る時は〔あっ〕という間に時は5時になっていました。
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◆姫路市まちづくり振興機構のメールシステムによって送信された文です。
・・件名ー   C理事長からのメッセージ

<情熱と信念>
先日、久しぶりに「情熱と信念」を持った人物の訪問を受けた。
NPO法人「スポーツクラブ・エストレラ」のT氏である。
聞くところによると23歳で少年サッカーチームを立ち上げ、F高校やK高校の
教師時代には想像を絶する熱血指導で「Jリーガーや日本代表」まで育てた人物で
ある。感動したのはサッカー経験のない彼が常に講習に参加し積極的に先輩から
指導を仰ぎながらスキルアップしレベルの低い姫路地区から「全国出場」の目標を
かかげついに「アマチュア日本一」を実現したことにある。

また現在は「禍」あってペースメーカーを埋め込みながらもNPO法人を仲間と
立ち上げ大塩地区を拠点に「大きな夢」に向かって歩み続けていることである。
65歳になった現在、監督時代に培ったネットワークなどにより行政に頼らず
自力で「toto(サッカーくじ)」から助成を受けてグランド整備を始めている
と聞いた。その行動力たるや姫路市にとってもサッカー界にとっても貴重な人財
あると思う。
その熱い思いをぜひ姫路市長の前で語ってほしいと願い先週機会を作らせてもらった。
今後、姫路市と「スポーツクラブ・エストレラ」の「隙間」を埋める必要があれば
当機構も積極的に関わっていきたい。

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「裏話」
市長に面会前にN氏に事前に会って打ち合わせをお願いしたところ。
N氏:「そんなことを気にするなんて樽本さんらしくない。
この前私に話したとおり熱い思いと信念を市長に話せばいい」
「樽本さんの熱い思いが気にいって市長とコンタクト取ったのだから。。。
夢、ビジョンを思いのまま語ればいい」と。

ありがたい言葉です。

15年間一緒にやってきたエストレラの仲間の「夢の思い」を「魂込めて」
姫路市長に語ってきました。

たるさんの部屋UPしました

たるさんの部屋

カウンセリングの技法「傾聴」

門を開けて耳を澄まして人の話を「聞く」
耳へんに十四の心と書いて「聴く」

相手(生徒)がどんな思いで話をしているか、、、しゃべっている内容もしかり
その思いの裏側は?心とはうらはらに、うまくしゃべれずに思いと違うことを言って
ないか?それこそ一つの話に十四通りの思いで「聴く」こと。
それを心して人と接して対応している。それが、、、

 

出会った生徒その(3)

「技法」なんかくそくらえ、、こっぱみじん、、、

〔A子〕はハキハキと明るく活動的。典型的な体育委員。
実際体育も安心して任せられて「集合!」で始まり「準備体操」ももう完璧。

その〔A子〕が二人きりで話がしたいと(教師と生徒が密室で二人きりでの会話は
原則禁止)でもそんなことは言ってられないことも多々あるもの。

体育館の西北側にある階段で。昼御飯終えて12時35分に会う約束。
話始めた〔A子〕。私はいつもの様に十四の心で、、、がしかし、、、
話の内容がきつい。「ええっ!!こんなことがこの子に起きていたとは、、、」
今までの長い教員生活で大概の経験をして少しのことでは驚かない私だが、、、

それはない。そんな大人が〔A子〕の周りにいるなんて、ましては肉親の中に、、、
話はじめてすぐに聞き入り、のめり込み、あまりにも〔A子〕が不びんで哀れで
涙が止まらない。止まらないどころか溢れ出てくる。。。
その時昼休み終了1時のチャイムが、、、、、
〔A子〕の心の奥にある叫び、魂に対して
私は一言も発せずに泣いているだけの25分間であった。
〔A子〕は立ち上がって
「たるさん、午後の授業が始まるから私行くな、ありがとう、聞いてくれて」

その後の〔A子〕は
いつも通りの明るく活発なまま。そのことに触れることもなく、、、
卒業式前日〔A子〕からの手紙が、、、
「たるさん、ありがとう。あの日はほんとうにうれしかった。親にも言えず
もちろん他の人や友だちにも言えなかった。
誰にも言えないことをたるさんに言えた。
たるさんは私に「ごめん、何も言えず、してやれず」と言ってくれたけど、、、
聞いてくれるだけでよかったんやで。
自分でがんばらなあかんことはわかっていたけど、、、
ただ聞いてほしかったんや。
明日から卒業やけどがんばれそうな気がする。ほんまにありがとう。」

カウンセリングの技法なんか全く通用せず。
〔A子〕どうしてるかな?幸せかな?

 
◆出会った生徒その(4)

「向き合ってるか!?」
〔A子〕は吹奏楽部。
進路希望は保育士か介護福祉士。
理由はおかあさんが少し耳が不自由でそばで助けることができたら、、、と
いうことでした。
〔A子家」は手話でなく学校や出掛ける時は向かい合ってゆっくりと
「い・っ・て・き・ま・す」帰るとまた向き合って「た・だ・い・ま」との約束。

おかあさんは〔A子〕の定期演奏会やコンサートによく行くそうです。
「今日はよかったで!」「今日はいまいちかな?」と感想を言うそうです。

私のバカな質問「えぇ、聞こえるの?」
「お・は・よ・う」から「お・や・す・み」まで一日に何度も向き合い我が子の
心情を察し喜怒哀楽を感じ取り、演奏中も楽しそうか乗っているか弾んでるか
読み取っておられるのでしょうね。

では我々はどうしてるのでしょう?
一日、いや何日も会話がない。帰ってきても別々に食事し自分の部屋に入り
携帯で過ごす。まるでホテル家族。
いつゆっくりと親子が、家族が、向かい合ったのでしょうか?

子どもの頃、早く伝えたくて喜び勇んで靴を脱ぎ捨てて
「なぁなぁ、おかあさん~聞いてぇー」と帰ってもおかあさんは仕事で不在。
居たとしても「もう、忙しいのに、、、あとにして」
抱っこして膝に乗せて今、今聞いてほしいのに。あとで聞いてくれたこともなく。。。

親に言っても聞いてはくれないと育った子どもはあきらめだんだん無口に。
子どもが成長し思春期になると親が急に「非行に走るとまずい」とあれこれと
(親の都合、タイミングで)聞きはじめるが子どもの反応は冷たく覚めてきてる。
「めんどう臭い、ほっといてくれ、うざいんじゃ、顔も見たくない」ってことに。
それでも「これだけ心配してるのに、、、」とひつこく、何度も何度も、、、
あげくは事情をしらない父親までがそんな時だけ「オヤジずら」して参戦。
子どもの態度に感情的になり「言ってはいけない禁句を」やってはいけない体罰も。

神様は人間に口は一つだが耳を二つも与えてくれたのに。
(しゃべることより2倍聴くようにしてくれているのに、、)
「あ~ぁ言い過ぎた」「また言ってしまった、言わなければよかった、、」と親。
「あの一言で。この親はあかんと思った」と子ども。
*言い過ぎて反省する話はあっても*聞きすぎて反省したって聞いたことないけど。

〔A子親子〕はどうしてるかな?、、おかあさんこそ「母の原点」ですね。
最高のカウンセラーです。

樽さんの部屋リニューアルしました!

たるさんの部屋
リニューアル!!

たるさんの部屋の内容を変えますね。
今は退職後、夢実現(エストパーク建設)に向かう一方で
時間があれば43年間を振り返り整理してます。
出会った生徒の話(実録)を書こうと思います。
その時々出会った生徒の手紙、メモ、整理ノートを見て思い起こしながら。
プライバシーもあり該当生徒には了解をもらうと同時に個人的な問題の部分は
一部変えていますのでご了承下さい。

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◇第1回目として2題
30歳台。教師力がなく、いつもこれでいいのか?こんな教師でいいのか?
悩んでなかなか寝つかれず、その日の「出来事メモ」もネガティブなことばかり
今読み返しても「暗いなぁ~」と思えることばかり。
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◆その(1) 「最高のラーメン」
クラブ(サッカー)を終えて夜8時に〔A〕の家庭訪問が予定に入ってます。
問題行動を2回起こして無期家庭謹慎の〔A〕が私を待っています。
(*謹慎中の生徒への家庭訪問は時間が許す限りほぼ毎日行くのが私の方針)
ところが腹が減って減って。〔A〕の家に近づくと最近出来たであろう新装の
「ラーメン屋」が気になっていました。
〔A〕の家に到着すると玄関先に正座をして(正座の強要はしてませんよ)
反省文と課題のノルマを前に置いて待っていました。
いつもおばあちゃんが迎えてくれます。
(*理由は詳しく書けませんが家庭の事情で両親は不在)
〔A〕に「おい、○○○(愛称)俺、腹減ったわ、そこのラーメン食べにいこー」
「どうせ、晩めし食べてないやろ、、、おばあちゃんも誘えや、、、」
さすがにおばあちゃんは遠慮されて二人でラーメン屋へ。
ラーメンを食べ始めると感じの悪い音が横でズルズル、、、ズルズルと。
「汚い食べ方する奴やなぁ~~」と見ると、ラーメンをすする音に混じって
涙と鼻水があふれ、それを見た私ももらい泣き。二人そろってズルズルと汚く、、、。
その間一言も話をすることもなく食べ終えてラーメン屋を出る。
車の中で〔A〕は一言。
「たるさん、俺がんばるわ。絶対にもうちゃんとやる!」
それだけで十分に気持ちが伝わってきた。もうこいつは大丈夫と確信。
教師づらして説教や説諭なんかいらないし、もちろんいい言葉など浮かばない。
反省文と課題をチエックして帰ろうとすると
「たるさん、ラーメンめちゃくちゃ美味しかったです。ありがとうございました」
ーーーーあれから30年近くがすぎたーーー
久しぶりに会った〔A〕も50歳に近づいた。
再会で言った私の言葉「おい、○○○(愛称)、ラーメン代450円返せや」(笑)
お互い、その一言だけで高校時代が一気に蘇りました。

 

◆その(2) 「おまえは俺の先生か!?」
〔A子〕はクラブB部のマネージャー。クラスの副委員長。人望は厚く仕事ができ
責任感があり高校生と思えない落ち着き。「ふわっ」とした日本の母という
雰囲気(ごめんなぁ、これたるさんのほめ言葉ですので気を悪くしないで)
家庭の事情から家から通える地元企業への就職希望。
推薦書も書きたいことがいっぱいありワクワクしながら合格を念じつつ思いを込めて。
午前中に入社試験のあと報告のため体育教官室にやってきた。
しかし一瞬〔A子〕が普段なかなか見せない不安そうな顔。そこで
私 :「何かあった、できなかった?」
A子:「試験はできたけど、面接が、、、」
私: 「どうしたん?」
A子:「家族のこと聞かれた、、」
私: 「えぇーツ!!」怒り、むかつき、腹立ち。
私はすぐに体育教官室を飛び出し進路指導室へ。だが担当の先生は不在。
次に校長室へ移動しようとした時
私の異変を感じたA子は追いかけてきて校長室の前で私をつかまえ
A子:「たるさん、どこへ行くん??」
私 :「もちろん受けた会社や!おかしいやろ、その面接って(怒)」
A子:「ええんや、たるさん。そんな会社なら合格してもきっと辞めることになる。
今わかって良かったんや、そんなとこへはいかへんから」
その言葉に 私、意気消沈
*以前A子はおばあちゃんと三者面談へやってきました。手を引いて。
その面談で私もおばあちゃんのこと大好きになっていました。

A子の「残念会」(祝賀会?)とおばあちゃんの「バースディ」をうちで計画。
おばあちゃんをサプライズで招待し、樽本家みんなで「誕生会」を楽しみました。
A子はその後も勉強をやり続け「公務員」に見事合格しました。
その変な面接のおかげで地元で「公務員」仕事となりました。めでたしめでたし。
「さすが!A子」というか、まるでA子は私の先生、進路指導、人生の師匠です。