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     たるさんの部屋

              お 役 目

 歳を取ると体力は落ちますね。仕方のないことですが、、、、
 でも嬉しいことに心の方は衰えるどころかまだ成長してる実感があります。
 ・20歳代:一生懸命やるが、、、(期待に応えたいばかりに)
 ・30歳代:忙しくて日々必死、、(結果がほしいばかりに)
 ・40歳代:苦しくて大変、、、、(ステータスを得たいばかりに)
 ・50歳代:少しは楽しさが、、、(まわりを使う術を知ると、、、)
 ・60歳代:先、見通しが見えて、(ニンマリとこれも経験から得たかな、、、)
 ・67歳今:人生はこれから、、、(スタートラインに立った)

 退職して規則、枠、時間に縛れないで好きな時に動けるのがいいです。
 思い描くことや考えることもうまくまとまり、したいことが「スーッ」と視界が
 開けるんです。だから日々楽しいです。
 出会いは(必然)で意味があると思えるようになりました。
 心が動けば会えばいいし無理して会うこともないとも思えるようになりました。

◇平成29年4月からは
 「子育て」で悩んでいる保護者や学校へ行けない子どもとも拙宅で面談を
 (カウンセリング)する時間ができました。
 学校勤務中ではできなかったことが今はゆったりとできています。
 その傍ら、エストレラ姫路や津田では以下のような講座を毎月開いてます。
 (1)少年対象:「こころ塾」(2)ジュニアユース対象:「メンタルセミナー」
 (3)少年、ジュニアユース年代の母親対象:「子育てママ塾」
 また
 ・4月:姫路市まちづくり振興機構広報誌(パンフレット)の記念すべき第1号に
     姫路のまちで活躍している人物として掲載していただきました。
 ・5月:ケーブルTV「ウインクひめじ」30分独占インタービュー番組
    「ひめじのチカラ」に出演させてもらいました。
 ・7月:市川町で保育士や保育園経営担当者対象に講演
 ・8月:加古川市並木学園英数学館の職員研修に講師として
 ・10月:姫路市後援の男女共同参画のコメンテーターとして出演予定。
     「子育てママ塾」コーデネーター。
      高校のPTA対象の講演会講師。
 ・12月:神崎郡で講演の依頼が、、、。

   上記のようにこんな私にオファーが来るって幸せなことです。
  これも神様からいただいた「お役目」だと思っています。
  そんな機会(おかげ)で次々と出会いがあります。
  あたりまえのことですが自分の出来ることは頼まれたら断らず
  必要とされている限りは何歳になっても引き受けるつもりです。

   教育という道を選んだ限りは退職しても教育を辞めるわけにはいかないです。
  教育は学校だけではなく地域でも子どもや人々と出会え接する機会がある限り
  教育を続けたいです。

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   たるさんの部屋                   ・29年夏号

     数々の汗と涙と思い出と共に、、、、
                最後の夏「大山」の夏

 福崎高校赴任30歳台初めの頃「夏の入校訓練」として「大山登山」や
 オリエンテーリングを立案、実行。鍛練と称して若気の至りの指導を思い起こす。
 当時の生徒ももう50歳前後に、、、、、。
 卒業式翌日には「卒業スキー旅行」とサッカー部員やクラス担任の生徒を連れて
 冬の大山を楽しんだものだった。
 教師として青春を過ごし懐かしの思いを馳せながら
 (大病後)ペースメーカーを埋め込み再び大山にお世話になるとは、、、
 津田サッカークラブ単独で「大山合宿」を開始したのが20年前。
 そして現在の「山香荘」へは当時の施設長からのお誘いを受けて18年が経った。

 豪雨、霧、酷暑の中。一致団結敢行した「大山登山」。登り下りの約4時間余りには
 数々のドラマが、、、子どもたちは卒団式に「大山登山」の思い出を語る。
  私自身も福崎高校教員時代は生徒と先頭を切っての「大山登山」は
 この体では「もうできない」とあきらめていたが生徒に励まされ施設長に付き添われ
 「大山登山」をやり遂げた感激は一生忘れられない思い出となった。
 何より「出来た」喜びと私自身がその後生きる力の大きな源となった。

 数年後には琴丘高校サッカー部もジュニアユースと合同で「大山合宿」に加わり
 秋の県高校選手権に向けて強化、早朝より鍛えに鍛え恒例の100本ダッシュに
 ランパスを繰り返す「大山合宿」ならではの雰囲気と環境に異様な高揚感、興奮が
 高まり「できないことが出来る」「一気に変われる」のが「大山合宿」でもあった。
 そのお蔭か、、、常に県上位に進出し53歳の時には再び県総体ファイナルへと。
 それは大山での強化が大きく影響したのはまぎれもない事実である。
 そしてその「魂」は次の転勤先姫路高校サッカー部へと繋いでくれた。

 その一方では「レクレーション」では子どもたちの出し物で大いにわき、
 私が司会をし子どもたちとの「笑点」で食堂が笑いの劇場に。楽しかった。
 「たるさんのスペシャルショー」では手品、クイズ、日本昔はなしなどを披露。
 ネタを考え仕込むのも私の夏恒例の楽しみの一つでもありました。
 バーベキュー、花火、肝だめしやナイター照明の元で大いに楽しみ歓声を包まれた。

 今年もはやりドラマが生まれた。
 おとなしく覇気がなく「元気が出せ、声を出せ、自分からやれ!」と言われ続けた
 6年生が100本ダッシュ(この夏ついに500本達成)。5年生がランパスを。
 5年生は翌日「大山登山」下山後すぐになんと100本ダッシュを。
 スタッフ陣も「まさかこの子が、、、」ふだんと違った頑張りを見せてやり切った。
 その姿に「感動!感動!!」見ているコーチたちも涙流せずには。。。。
 ジュニアユースは全国レベルの強豪米子北高(サブ)が胸を貸してくれたあと
 大山締めくくりにと「ランパス30分×2本」を叫び声と必死の形相とでやり切った。
 「たるもと=大山」には100本ダッシュとランパスがよく似合う。

 母親の介護からオヤジの看病へと長く続き、樽本家を空けれられずいた20年間。
 この6月にオヤジを亡くした結果、家族ほぼ全員が大山に揃った。
 最後の「大山」と悟りオヤジからの子どもや孫へのプレゼントだったかも知れない。

 「大山」最後の夏が終わった。感傷、、、 正直寂しい。。。
 20年間「大山」を共にした生徒、スタッフ全てのみんなにあらためて感謝!!。

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たるさんの部屋                  H29、5、24

ケーブルTV     「ウインクひめじチャンネル」
番組「はりまのチカラ」インタビュー内容

〔質問〕:サッカー少年でしたか?

・出産時(産婆さん)から母親に「この子はあきらめなさい」と言われたそうで
私の幼い頃の記憶は体が弱く病院通いと「絵」を書いていたことしか覚えません。
・低学年では運動会の徒競走でもビリに近く、運動のできない少年時代でした。
・ですがスポーツに興味、関心はありスポーツ観戦は大好きでした。
選手の名を覚えたりスポーツ雑誌や指導専門書を読んでいた記憶があります。
・10歳ごろに「体が弱いままでは、、」と思い朝早く起きて、また夜寝る前にも
近所を走ってました。すると体力がついていくのがわかり長距離なら人並に
走れる自信がつき学校を休まなくなりました。

〔質問〕:大学を体育大学出身ですよね、なぜ、、、

・中学、高校時代は受験に失敗。うまくいかずいい思い出がありませんでした。
・でも「夢」はスポーツ記者になること。ですが志望大学を7つ全て受験を失敗。
スポーツ記者の夢も、、、落ちたショックで何も考えられずに浪人を覚悟。
・高校の体育の先生から「スポーツが好きなら指導者になってみては、、」との
アドバイスに1960年代当時オリンピンク選手やインターハイ、国体で活躍した
超一流が集まる体育系大学で超名門の「日体大」とは中身を何も知らずに入学。

〔質問〕:サッカーを選んだわけは、、、

・中学、高校と陸上部で陸上競技は生まれながらの才能やセンスが必要。
当然運動音痴の私が記録や結果は出せるわけもなく大学では
「アメリカンフットボール」がやりたいと思っていました。
理由は走れる体力が少しあり、チームプレーや頭を使うスポーツで
大学から始める人も多く同じスタートラインに立てるのでは、、、と。
ですが事情があり入部できず寮に空き部屋があったサッカー部へ。

〔質問〕:大学で初めてサッカーをしたということですか?うまくいきましたか?

・入部志望動機も強くなく、初心者などでは通用するはずもなく雑用係1年間で
ユニホームに袖を通すこともなく退部することになりました。

〔質問〕:高校教師になった、そのキッカケは?

・学生時代は先生というイメージが悪く教師にはなりたくないと思っていました。
しかも大学の事前調査もせずに「日体大」に入学したバカさ加減に嫌になっていました。
①自分のやりたいことではない、②自分の居場所でもない。
落ち込んで大学を辞めて姫路に帰ろうと考えていました。
※その時です。私の人生「第1の転機」になる同級生と出会います。
彼は私に「教師になろう」と引っ張ってくれて教員採用勉強も一緒に支え励まして
くれました。彼がいなければ今の私は当然なかったと思います。
同級生ですが人として尊敬ができ男としてあこがれでいつも教師の目標でした。
生徒を思う心の強さは出会った教師の中でも彼の右に出る人は未だにいません。

〔質問〕:高校教師は何年勤められましたか?

・人が好き、子どもが大好き、お節介という性格が生かせる職業でした。
生徒のお蔭で、生徒に支えられて「43年間」無事終えることができました。
学生時代教師にはなりたくない思っていましたがわからないものです。

〔質問〕:高校教師と並行して津田SCの指導を始められていますがキッカケは?

キッカケは2つありました。
(1つめ)は大学を出て定時制高校の分校に6年勤務しました。
教師として何もできない私に定時制の生徒はたくさんのことを教えてくれました。
昼間は仕事を持ちながら夜学校に来て勉学に励む生徒たちを見て
「よし!高校教師をしながら、もう一つ地域で何かしたい」と。
(2つめ)は子どもが好きで子どもといたいとスポーツ少年団を結成しました。
<サッカークラブを設立の理由は>
・当時サッカーは人気のない競技でしたが広いグランドを自由に

子どもたちの考えで楽しめるという理由で募集し40人集まりました。
・設立時にはサッカー素人である私が「3年後にこの子たちと「全国」に出る」
と公言をして(ひんしゅく)をかいました。
思いつくとすぐに口に出して行動するためにたびたび失敗もしてきました。
でもやらないで後悔するよりやって失敗の方がいいという性格です。

〔質問〕:津田SCは10年後に社会人チームを新設されたのですね?

・1974年(23歳)地域密着をビジョンに掲げ少年部を設立しました。
20年後に発足したJリーグの理念も「地域密着」(先を行ってましたね)
・狙いは教え子が中学から高校生となりやがて10年後には大人となる。
その時の居場所の準備として社会人チームを創部しました。
教え子が社会人となり指導者として戻り次の世代の子どもたちを教える。
教え子の子どもが入ってくる。私の大好きな言葉である「夢の循環」です。
社会人チーム結成5年後に「全国社会人サッカー選手権」に出場し後4度全国へ。
そして1996年には「歓喜の瞬間」が訪れます。
全国クラブチーム選手権優勝!!「アマチュア日本一」になります。

〔質問〕:サッカー経験が少ない監督がサッカー指導、難しくなかったですか、、、

・自分にサッカー経験がないというのは凄いハンディでした。
子どもに頑張れというなら自分も子どもに負けないで勉強しようと必死でした。
・トレーナーやスポーツ指導員など資格を取りに、また強いチームがいると聞けば
足を運び指導を仰ぎ、遠くは関東、静岡、西日本各地出掛けていました。。
・当時大学日本一だった大商大には長期休みごと日参して全国の有名強豪高校に胸を
借り、お蔭で無名だった勤務校福崎高校が2度兵庫県のファイナルや近畿で3位に。
個人も国体選手が数名。日本リーガーや日本ユース代表候補まで輩出するまでになりました。
※恥ずかしさ、遠慮、ためらいもなくどこにでも出掛けられたのは
「サッカーの経験のない者の強み」がそうさせたのかも知れません。
・福崎高校では私の人生の「第2の転機」になった教え子たちに出会います。
私に指導力がなく、ただ厳しいだけでしたが信じてついて来て、支えてくれ
数々の栄光を手にしてくれた二代に渡る主将たちです。
〔質問〕:指導する時に大切にしているのは、、、

(1)「自立」
・指導しすぎずに自分で考えさせ(自立)させることです。
・生徒の一番の特長を見つけ、そこを消さないで伸ばすことです。
(2)「あきらめない=努力の天才」
・物事はうまくはいかない。うまくいかないから工夫し考え粘り強くやり続ける。

〔質問〕:長年指導者をしていて印象に残ることは、、、

◆私の人生の「第3の転機」(厄年41歳)になった事です。当時の生活は
(1)5時半起床で一日の準備から始まる。
(2)6時半には津田SCの朝練を。指示して途中から福崎高の朝練へ
(3)福崎高では授業後→クラブ(サッカー指導)を7時過ぎまで。
(4)サッカー素人の私が日本リーグの審判のためトレーニングを生徒と一緒に。
(5)家庭訪問のかたわら→週2回津田社会人のナイター指導→9時すぎ帰宅。
(6)帰ればサッカー部員やクラスの生徒の交換ノートにサッカーだより作成。
(7)「週末」は少年や高校の試合。選抜チームのコーチ、審判活動。
・1日2時間の睡眠という日が続くが楽しい日々(私にやっと青春が、、、)
もっと時間がほしいと思う矢先、、体調に異変が、、、、
ムリにムリがたたり医者から「あと3週間の命」と(人生終わったと、、)
・入院、手術、リハビリ3ヵ月間は「死に対する恐怖、将来への不安」と
「なんで俺が、、、ねたみ、ひがみ」の毎日。人生どん底へ。
※心臓にペースメーカーを埋め込み手術。なんとか命をつなぐ。1級の身体障害者に。
毎日大勢の生徒たちの見舞いに励まされ退院にこぎつける。
・退院後は通院の中で「今までのやり方ではいけない、違う自分に出会いたい」と
願う一方で
☆神様は「私をこういう体にしてくれたのはきっと何か意味があるのでは、、、」
と考えるまでに1年半かかった。
そしてその答えは
①休むことを覚えた、②体が無理なら「心」で生徒に寄り添うこと
・退院後は新勤務地琴丘高校では身障者となりましたが
「少し不自由だが不幸ではない。生きてるだけでもうけもの、残り人生人助け」
※人生の最大の危機だったピンチをチャンスにする生き方をびました。

・琴丘高校サッカー部に着任し、いつもの目標である「3年後に姫路でトップ」
「5年後に兵庫でベスト4」の目標を果たしつつ「6年後には全国へ」
だが決勝では全国屈指の強豪となった滝川第二高校に敗れ夢は消えました。
個人として数名の国体県代表、Jリーガー4名、日本代表も出てきてくれた。

〔質問〕:2000年にNPOを法人を設立されましたが、、

 ・人口55万人中核都市姫路に当時はサッカー専用の芝のグランドは一つもなく
Jリーガーも数名、日本代表もやっと一人程度。
・青少年を強化しないと姫路は、、、と危惧したサッカー指導者仲間が集まり
2年にかけて下準備をして2000年に現在のエストレラが誕生します。
・2000年は私も50歳。教員の集大成に向けての年齢になっていました。
<10年後のビジョンは>
(1)エストレラを陰から支える。
(2)津田SCも40年を迎え充実させる。
(3)琴丘高では学年主任をさせてもらいながらもう一度全国の「夢」を果たす。
*だが県総体決勝で現:日本代表の岡崎擁する滝川第二に又も敗退します。
(4)カウンセリング資格の取得を目標として一番<勉強>をした年代です。

〔質問〕:姫路が好きなんですね

・姫路で生まれ姫路で育ちました。生徒や子どもたちには「県外や世界へ行け!」と。
でも戻ってきてほしいんです。子どもたちが「やはり姫路はいい」と自慢できる
「街づくり」をする責任が我々大人にはあります。

〔質問〕:エストパークがこのほど完成しましたが、選手は、、、

・17年近く悪環境で選手たちは取り組んで来ました。やっと活動拠点である
ホームグランドができました。これほど嬉しいことはありません。
北側に山。南側に海。グランドに立っているだけで気持ちのいいこの場で
イキイキとサッカーに取り組んでいます。本当に作ってよかったです。

〔質問〕:これからの目標は

・還暦パーティの挨拶では「退職後サッカー場を作る」と公言しました。
それが昨年11月「エストパーク」として実現しました。
・66歳の今、教師を退職してからの目標は※「居場所」作りです。
(1)子どもたちの帰る場所(故郷)
(2)選手の強化の場、経験の場。
(3)健常者、身障者、高齢者さまざまな人が集い楽しむ場所。
(4)ハンディを背負った方々の活躍の場。
※野球は甲子園、サッカーは国立、身障者スポーツはエストパーク。
(5)不登校、閉じ籠もり等、学校や社会へ出ずらい人がゆっくりおれる場所。

〔質問〕:樽本さんの選手指導理念、目的

・サッカーで勝つ、結果を出す、全国へいくとかは2の次、3の次で
「人に好かれる人間作り」が目的です。
・40年以上掲げている〔指導理念〕
(1)一所懸命ひたむきに
何でも決めたら見ている人々が感動するくらいに「一所懸命ひたむきに」
(2)人のために
相手に「ありがとう」と言ってもらえる生き方「人のために」にどう動くかです。

〔質問〕:樽本さんのチカラの源は、、、

・私のチカラの源は「生徒と出会って生徒に育てられて」です。
この年になってこうして夢が見れ、語れるのも教え子たちのお蔭です。
「ありがとう」の感謝しかないです。これからも教え子たちと夢を追いかけたい。

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◆ケーブルTV「ウインクひめじチャンネル」「はりまのチカラ」は
6月中に放送があります<放送時間>は
<月、火曜>・11:00~11:30<水、木曜>・19:30~20:00
<金曜>・16:30~17:30  <土、日曜>・8:45~9:15
*インタビューの内容はいくつか編集されているとのことです。
よろしければぜひご覧下さい。 

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たるさんの部屋                    2017、5、10

各赴任先高校で体育授業で取った
<アンケート第2弾>

*テーマ:中学時代に言えなかった「あかあさんへ」

・子どもの頃にいっぱいほめてくれたのに中学になるとどうしてそう悪く言うの?

・「おかえりー」のあとは少しだまっていてほしかった。

・中3の頃、塾のせいにして帰りがいつも遅いこと気づいてないやろうなぁ~。

・めちゃくちゃ怒られ泣いた。あれで私が「納得したとでも思ってるの??」
「もう言うてもわかってくれへんな」とあきらめたわ。

・「何でも話して、、、」というたびに「あんたって、、、」と説教になった。

・「自分に自信を持て」って言うけど「自信を無くすことばかり」言うくせに。

・「あんたは気が弱いからあかん」私はおかあさんのように「やつあたり」は
できへん。

・「無口で何を考えてるかようわからん」と言われるけど話したくなるような
聞き方を絶対にしてくれへんかった(実は私はおしゃべりやで)

・家で怒られて中学校へ行く途中に保育園の時の先生が声をかけてくれた。
「元気?」笑顔で優しい声やった。

・「信用できへんわ」とたびたび言われて育った私が人を信用できるはずがない。

*テーマ:最近の「高校生事情」

・おかあさんとケンカして「こんな家なんか出ていくわ!」って言ったら
「あんたがこの家を出るときはな、嫁に行く時やでぇ」

・たるさん、嬉しいこと聞いて「親がやっと離婚した」
これで開放される、今度住むとこは古く狭いけど自由がある。
オヤジが帰ってくるたびにビクビクしなくていい。
おかあさんとの夫婦ゲンカを見ずにすむ。
今は楽しい。一生懸命がんばっておかあさんを楽にさせたい。

・お兄ちゃんと比べるのやめて。そりゃお兄ちゃんはまじめやし勉強もできる。
うちが家にいたら「ジャマや」というオーラ出さんといてほしい。
私はどこにいたらええん。

・口を聞きたくない日もある。クラブや友だちや学校でいろいろあってソーッと
してほしい構わんといてほしい時だってある。それくらい気づいてほしい。
私だっておかあさんのその日の雰囲気、感じはわかるで。

・おとうさんが苦手でどうしたらいいか悩んでいたら、今日のたるさんの授業で
少しはわかった。
理由なしにイヤになる、けむたい、一緒にいたくない時がある。と。
今の私がそうや。好きやけどでも嫌い。こういう自分がわけわからんと思っていたが
みんなそういう時期があると聞いてほっとした。
たるさんが言ってくれたおとうさんの見方を変えてみるわ。

・高2になると進路、志望校など決めなあかん。でも決められへん。
子どもの頃ずっと「夢」を持ち、将来をどうするか決められへんかった。
「あんたには夢ないん?まわりの子はしっかり目標があるのに、、、
あんた見てたらいつもハッキリしないからイライラするわ」とお母さんは言う。
大好きなおじいちゃんやおばあちゃん、口うるさいお母さん、無口だけど
黙々と仕事しているお父さんとこの家でずっと暮らしたいと思うのが「夢」
そう思うのはあかんやろうか?

・テストでいい点取って少しでも順位あげてとがんばってるつもりやけど、、、
頭も要領も悪いし徹夜してがんばるけどテストが返ってくるたびにへこむ。
親がその結果をみるたびに「やっぱしな、、あぁまたか、、、」って顔をする。
何も言わずに。これがまた辛い。作り笑顔で返すけどいっぱい、いっぱいや。
部屋に入って「ワーッ」と叫ぶけど。試験のない世界へ行きたい。
現実に戻ると自分のバカさ加減にむかつき毎日が苦しい。

・おかあさんと私の3者面談のあった後、たるさんが廊下で
「おまえのなんともいえないあったかい感じはおかあさんそのままやな」って。
メチャメチャ嬉しかったわ。
 

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たるさんの部屋

人生は「思い通り」にいかないもの

人生は楽しい日ばかりではありません。でも苦しい日ばかりでもありません。
「いろいろあるから人生」と言える年齢になってきました。

*私の子どもの頃や学生時代にはあまり「いい思い出」がありません。
母親によると産まれた時は産婆さん(古い時代ですね)からは「危ない」と言われ
マリア病院に運ばれ長く入院してたそうです。
物心がついた頃から病弱で家の中でズーっと絵を描いていたことを覚えています。
近所のかかりつけ医には学校より多く通っていた記憶があります。
体力はなく色白で小柄。朝礼や集会で座り込んだり倒れたりイヤな思いが、、、
低学年では当然運動はできず足は遅く運動会の徒競走はビリの部類でした。
でもスポーツに興味があり見ることは大好きでした。
4年の終わり頃から毎朝早く起きて、また夜寝る前にも近所周辺を走っていました。
子ども心に「強くなりたい」と体作りの本を買って見よう見まねでやってました。
中学時代はスポーツ記事をまとめたり運動の専門書をよく読んでいました。
努力したりスポーツについて読み書きしたことがその後生かされたかも知れません。

*中学受験に失敗。公立志望高校にも失敗。大学など受験7校全てに不合格。
たどりついた先は予備知識のない調べもせずに希望校でない「日体大」へ。
ご存じように昭和40年代は全国レベルや超スペシャリストの運動集団の体育大学。
徒競走でビリの運動能力やましてやサッカー経験のない初心者の居場所では
ありませんでした。スポーツ歴としては何もない青春時代が終わりました。

*でもそんな私がイキイキとできる時期がやってきました。
それは「教師」になってからのことです。
子どもや人といることが好きで「お節介な性格」が生かせる仕事です。
体が弱い子。運動のできない生徒。レギュラーが取れないベンチ暮らしの選手。
仕事(用意、準備、整備、あと片付け)ができ周りへ「気づかい」ができる生徒に
目が届き気持ちがわかってあげられたのは自分がそうだったからかも知れません。
「教師」生活をしながらやっと青春が来て「うまくいってるなあ~」と
思っていたらとんでもないことに。あと3週間と寿命を切られる大病に。
辛くどん底に落ちました。でも苦しくイヤなことばかりではありません。
多くの生徒に囲まれて「夢実現」であるエストパークができました。

*思い通りにならず悩んでる生徒には
「うまくいかないやろ、、、辛いやろう、、、でもいつかいい日が来るから、、、」
「動作が遅くてもうまく出来なくても勉強できなくても、人生あわてずゆっくりと
笑顔で〔人のため〕にさせてもらっていたらきっといいことがある」と。
「いいことって何?」と聞く生徒には「ありがとう!」と言ってもらえるよ。
私のジッ体験を伝えることにしてます。それしかできませんが、、、。

*「挨拶」を交わすと人と人の〔間(あいだ)〕に心が通い〔人間〕同士になれる。
人間同士が同じ目標に向かうと「信頼」が中に入り→人+中=〔仲〕間に。
人間関係を構築する大事なことは人と人の〔間(ま)〕→「間合い、距離間」
付きすぎず、離れすぎず絶妙の「タイミング」と繊細な「気づき」がポイント。
人間関係も「思い通りにいかないもの」と思うほうがいいかも知れません。
特にそばにいる夫婦間のことや我が子を思い通りにしようとしないことですね。

*今日も明日もいい日が来ますように。
 

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たるさんの部屋             29年、4月、春号。

 

高校を退職して2年めに入りました。
初々しい制服姿の小学生、中学生、高校生を街角で見ると新鮮になり我が身まで
清められる気がします。

※「感謝」
人生「出会い」が全てです。「出会い」に「感謝」です。
生徒には「感謝」を持って「人のために」「一所懸命ひたむきに」生きることを
伝えてきましたが、あらためてこの季節は自分自身に言い聞かせる時期です。

3月は「別れ」の季節でした。
別れの生徒たちには今後素晴らしい(いい大人や仲間と)「出会い」があることを
祈り送り出すしかできません。
私は「別れ際(ぎわ)」を大事にしたいです。でも、、、、。
(1)「最後だから言わせてもらう」と。出会いに最後はありませんよね。
どこかで誰かと繋がってます。本人ではなくても子や孫と繋がるかも知れません。
(2)「この際だから言わせてもらう」と。どの際なのでしょう、、、、。
「この人はそうだったのか?」とその人自身の見方が変わってしまいます。
(3)「飲まないと言えないから」と。酒の勢いで、、、、。
「やはり、この人の本音はそこか、、、」と信じることさえも難しくなります。
いずれにせよ一度口に出した言葉が相手の心に入ると消えずとも残るものです。
しかも言い過ぎたり、思いが伝わらないことも多々あります(言葉は難しいです)
だから「別れ際」は全て「感謝(ありがとう)」でいいと思います。
でないと再会した時が気まずいですよね。
それが証拠に
卒業生や教え子の家族、親族などが企業や自営業など幅広く活躍しています。
43年間のサッカー人生でJクラブ、大学、もちろん高校、ジュニアユースから
少年まで多種、様々な「出会い」があり私もサッカー観や人生観にも大きな影響を
いただいて家族のような付き合いをさせてもらっている数多くの人たちがいます。
その人たちに私の教え子たちがお世話になるケースが非常に増えてきました。
「先生、A君はどんな生徒でしたか?」とよく聞かれます。
これは偶然の「出会い」ではなく「必然」なんですね(繋り)

4月新たな出会い。
津田サッカークラブの少年部新1年生が申し込みが約30名(23日確定)
ジュニアユース新1年が23名。
エストレラ姫路ジュニアユース新1年が34名。
「必然」的な「出会い」に感謝するとともにこの子たちには
私自身が様々な人と出会い、学んだ大切なことを(繋いで)いきたいと思っています。

※「一所懸命ひたむきに」
人生を一生かけて「一生懸命」。その時その所(場所)で「一所懸命」に汗を流し
目を輝かせ頑張る姿に人々は感動をするものです。

私は卒業生によく言うのは、
人生を10年プランで計画し目標を定め方針を立てるようにアドバイスしています。
私も40年が過ぎてやっと方向が決まってきました。
次の10年が集大成かとも思っています。
常に考え、気づいたことをメモ(枕元、TV横、車の中、カバンの中等)をして
まとめて整理する。文書にしたら今度は口に出して広言する(有言)
できない理由があるならどこにあるか探しながら前に進むことを優先します。
そして決めたらやる、やり続ける(有言→実行)
先が見えず目標を見失った時は<目の前>のことを「忠実にていねいにやれ」と。
やり続けることが大事で続けていたら視界が広がる時がきっと来る。(と、信じて)
人生「あせらず、あわてず、あきらめず」

※「人のために」
生徒に「人間関係がうまくいく」秘訣は
「自分のことより相手のことを考え、気づき、察してあげること」と答えます。
私事で恥かしいですが最近「うまく歳を取れてるなぁ~」と思えます。
その理由は
「させてもらう、してあげる」ことが今まで以上に楽しくなってるからです。
さらに嬉しいことは
教え子たちが私の生き方を各方面で繋いでくれる姿を目にすることが増えたこと。
人を育てて世の中に送りだし「社会へお返しができてるなぁ~」と感じています。
教え子や出会った人たちと共に「人のために」生きることが結束できれば
大きな力となって住みよい社会になり、さらに将来の日本を支える子どもたちも
育っていきます。
我々大人も子どもに恥ずかしくないように生きていきましょう。

*この1年私と「たるさんサッカーファミリー」をあたたかく見守って下さい。
またどこかで「必然」的な「出会い」を祈りつつ。。。。

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たるさんの部屋                    平成29年3月1日

また、また「別離」の季節。
(続;わがまま編)

津田、福崎高校の教え子たちの「仲人」を28組させてもらいました。
披露宴のあとの二次会を拙宅で開いたり今も家族同然に付き合っています。
その多くが社会人でも一緒に夢を追い現在は津田のスタッフへと繋がっています。
まさに「夢の循環」津田、樽本ファミリーです。
今も結婚式に数多く招待され新郎と多くの教え子たちに囲まれて同窓会的
雰囲気も漂い幸せな場をいただいています。

*「津田のぬるま湯」に浸かると「プロになれない、有名な強豪チームに入りたい、
うまくなりたい」と過去にも津田から旅立った少年も多くいます。
それも世界に目を向ける時代であり自然な成り行きでもあります。
サッカーブームや情報があふれる中で親のさまざまな考えがあるのも事実です。
わが子をそばに置いておきたくても親から離れる時期が必ずやってきます。
それまでは友だちや家族やいい大人に囲まれ「愛情」をいっぱいに優しさを知り
「思いやる心」を身につけ「自立」ができてからでも遅くない。
「長い人生そんなに急いで、、、」じっくりゆっくり、、と親も指導者も
子どもの「大器晩成」をめざすべきだと思います。

*私はたいしたサッカー指導(技術、理論、戦術など)はできません。
子どもが「好き」子どもと一緒に居たいと思うことしかできません。
その思いだけで勤務先(福崎高や琴丘高、市姫高)である程度の結果も出せました。
個人でも普通の能力の子たちが5名Jリーガーに、日本代表や日本ユース代表や
代表候補にもまた国体代表としても数多くの者が出場していきました。
津田少年からジュニアユースへ。そして高校から卒業後は社会人へとつないで
「社会人サッカー選手権」に全国出場4度という夢を叶えましたし
「全国クラブチーム選手権優勝=アマチュア日本一」という輝かしい結果も出ました。
少年や中学時代は技術や能力ばかりを高め結果だけを求めることより
「人としての成長(人間のプロ)」が基礎、基本だと思っています。
「指導者(コーチ)は教育の伝導者」でないといけません。
手塩にかけて育てた子どもたちが良き指導者や教師に出会え成長することを
心から願っています。でないと私も少年の指導者も親も救われません。

*今年の6年生は県トップリーグも全日県予選もベスト4という輝かしい結果を
出しましたがそれ以上にあたたかく好感が持てる学年でした。
優しくて友だちを思える「気づき」がいいんです。
この良さはアマチュア日本一、全国社会人出場や各高校で結果を出した年代の
少年時代とよく似ていて「一緒にいてホッ」とできるメンバーです。

*私は高校サッカー監督を終えてグランド建設に奔走した1年間でした。
一方ではピッチで教え子と夢を追いかけることができない寂しさもありました。
その時今年の6年を見るたびに(大切な物=触れ愛)に気づき勇気づけられました。
だからこそ今年の6年の「夢実現」のためにそばにいて叶えてやりたいのです。
多くの経験、体験させ必ずやってくる思春期には親に言えない悩み、苦しみに
寄り添ってやることが私の役目であり津田スタッフも総動員で守ってやりたいと
思っています。それこそが43年間も続いて津田の伝統なんです。
仲間の結婚をみんなで祝い次代の子もみんなで育て今後展開するエストパークで
津田、樽本ファミリー夢の循環を巨大な揺るぎないものにしたいと願っています。
これってやはり「わがまま」ですかね。

 

 

 
 

たるさんの部屋UPしました

たるさんの部屋                    平成29年2月

また「新しい出発」が、、、

突然ですが、、、
平成29年度、エストレラ姫路社会人チームの監督になりました。
(えっ?えーーッという驚きと、何を今更、、、の声が聞こえてきます)

*社会人チームの経緯
・1974年:津田サッカークラブ少年部創部。
少年部に所属して10年経過したメンバ-が社会人となった
・1984年:津田社会人チーム結成(監督に就任)
~:姫路市3部リーグからスタート。
・1987年:兵庫県リーグ入り(監督三木陽介へ)
~:県リーグ優勝9回。全国社会人サッカー選手権出場4回。
・1996年:全国クラブチームサッカー選手権「優勝!!」
・2000年:エストレラ姫路ジュニアユース創部。当時のメンバーが社会人となった
・2012年:津田トップチームから→エストレラ姫路へに改名。

*来期監督就任決定までの経緯
今期監督:高田博元(エスト1回生/関西学生1部リーグ優秀主将受賞)は
エストレラへを愛する熱さは彼の右に出る者はいないほどの存在感。
明るく積極的で監督(兼)選手としてチームを大声で叱咤激励し鼓舞する一方
人情味があり仲間を思う優しさを兼ね備えた好人物でした。
その高田が夏に突然の東京転勤となり前期絶好調で走っていたがチームは
主柱、司令塔を失い後期は迷走しわずかの差で夢の関西リーグ入りを逃しました。

私はエストレラフットボール部門センター長(兼)理事長として
新年度編成(監督や三役、スタッフ)を開いて発表する立場にありました。
そのためにヒアリングを実施し意見を聞こうと招集したところ
思いもよらない「まさか!」の意見というより(嘆願)に近い申し出が、、、
私への「監督要請」でした。

選手たちと2時間近く話を聞くうちに悩み苦しみがヒシヒシと伝わってきて
彼らにもう一度大好きなサッカーを苦しみから開放し本来の楽しむべきもの、
思い切り熱中させてやりたいと強く感じました。
そう思うと心底「メラメラ、、」と燃えるものが、、
「2、3日間考える時間をくれ。。。」と即答は避けたが、、、、

退職してこの1年。
新しい出会いと多くの方々のお蔭を持って完成した「エストパーク」。
その完成に向けて慣れないことへの奔走で少し疲れたのも確かです。
嬉しいことの連続で感謝、感謝なんですが何かちょっと違う1年でした。
やはり私はピッチで生徒や選手のことを考え、共に戦うのが合いそうです。
夢であったグランドが完成し正夢に。次の夢「関西リーグ昇格」めざして
津田、福崎、琴丘、市姫の監督を経て今度はエストの監督としてがんばります。

兵庫県社会人リーグ戦ホームゲームをほぼエストパークで行う予定です。
ユース県トップリーグ戦もジュニアユースの大会も開催され念願であった
エストレラ各カテゴリー様々なゲームをぜひ足をお運び観戦の上、
応援よろしくお願いします。

たるさんの部屋UPしました

たるさんの部屋                    平成29年1月3日

あけましておめでとう
雨男には珍しく晴れた、、、卒業生、その家族、現役社会人、Jrユースに
少年、その保護者合わせて約400余人のあたたかい思いが天に通じた。。。。
(だが午後から一瞬曇って小雨が、、「さすが雨男」と周囲の声)

*1月3日は「初蹴り」。今年で44回目。今までで最高の「初蹴り」でした。
教え子に会える喜びに今回はグランド完成の「祝い」の「喜び」もありました。
新年「おめでとう」の返礼挨拶とエストパークの完成に
「ありがとう」の言葉が返せました。

*「嬉しい」まさに感動、感激一日。ほんとうに本当に嬉しかったです。
「たるさんの部屋」にどんな言葉を使おうかとうまく文にならず今困っています。
わかってもらえるでしょうか?

*福崎高、琴丘高、姫路高のグランドを使ってやってきた「初蹴り」から
今回からホームグランドであるエストパークで開催できる。
最高グレードの人工芝では現役中にはなかった笑顔。
思うように動かない体にミスの連発。
それを笑いでごまかしながら楽しそうにプレー。
昔懐かしい「クセ」そのままの姿に爆笑、歓声が絶えなかった。
教え子の最高年齢は53歳。孫もいるおじいちゃんになっている者。
嫁や家族、子どもを紹介してくれる。仕事、就職、転職、家を建てた者、、、など。
教え子たちの人生を聞くのもまた楽しい。
久しぶりにあって嬉しそうに昔話や懐かしい話を交わす教え子たちの姿に
「やはり仲間はいいな~」と。「人っていいなぁ~教え子っていいなぁ~」

*この場を借りて感謝(お礼)を二つ。
一つめのお礼は家族へ
この日エストパークには妻と三人の娘と教え子である娘の主人たち。
この春社会人になる初孫。エストレラ姫路Jrユースの2番目の孫。
津田ジュニア、キンダーの2人の孫たちも同じ場で迎えられたこと。
家族の支えがあったからこそ今がある。あらためて心を込めて「ありがとう」

二つめのお礼は教え子たちへ
わが子、孫たちを含めた樽本家は教え子たちに守られて今がある。
本日こうして樽本家も教え子たちの仲間と一員として同じ輪の中に居させて
もらえることに感謝。ほんとうに「ありがとう」

*教え子のみんなへ。
先生と呼ばれる限りは「先に人生」を行かないとね。背中を見てもらわないと。
次の「夢実現」に向けてこうしてみんなと喜び合える日が脈々と続くように
前へ前へ行く。
人生辛く苦しいことばかりではない。
今あったとしても「利他の精神」でいたらきっと「いいこと」が待ってる。
どうせ生きるなら楽しく明るく夢と希望を持っていこう。

本年もどうぞよろしく

また「たるさんの部屋」もよろしく。
教師時代のおもしろ?実話がまだまだあります。随時掲載していきます。
今日のあまりの嬉しさに眠れそうにありません。

たるさんの部屋UPしました

たるさんの部屋
<今年を振り返って>
ただただ「ありがとう」しかありません。

3月30日(日)姫路高校サッカー部から家族を招待してのサプライズ「送別会」。
これには(涙、ナミダの)感動!何ともいえないあたたかさの中で43年間の
高校教員生を終えることができました。

・15’11月:エストレラ理事会の承認を受けて「toto助成金」申請手続き。
・16’4月 :「toto助成金」決定。6月:グランド「地鎮祭」
・16’11月27日:エストパーク「竣工式」。

夢のような話が実現した素晴らしい1年になりました。
これには2月に(A先生)との出会いがなければなかったかも知れません。
(先生)は私の邪悪な心、迷い、戸惑い、悩みを聞いていただきました。
手を合わせ常に感謝する生き方をあらためて教わるとともに
「夢実現」の「決断」へ大きな力で後押しをしていただきました。

「人の喜ぶ顔が見たい」その一心で大病もし家族を見返ることもせずに
やってきました
気になる、困っている人や生徒にはできもしないくせに何とかしてやりたいと
「お節介」な性格を43年間通させてもらいました。

(A先生)曰く
「退職後に樽本先生にとんでもなくすごいことが起こります。一気に花が咲きますよ。
そしてそれは11月にやってきますよ」半信半疑の私に。
「樽本先生から多くを学んだ生徒さんが「先生の夢」を今か今かと待ち望んでいます。
そして夢に向かっているとたくさんの人と出会っていきます。
その人たちは「人のために」生きてきた先生の夢に「一緒にやりましょう」と
笑顔で集まり、力の結集が「グランド完成」に繋がっていきます。
「出会い=繋がり」それは偶然ではありません、必然なんですと。
だから樽本先生がやろうとする(他者、社会貢献)ことに失敗は起きないのです。

***まさにその通りでした***

次々と新しい出会いがありその人たちのおかげでグランド完成となりました。
嬉しいのは教え子たちの「喜ぶ顔」が見れることです。
教え子や出会った人たちにただただ「ありがとう」しかありません

※みんなと一緒に夢実現グランドを「祝う」ために
・12月24日(土)「クリスマス
・1月3日(火)「初蹴り」を計画しました。ぜひ来て下さい。
(*詳細は津田HP「エストパークコーナー」に掲載)

この場を借りてですが本当にこの1年ありがとうございました。
でもまだまだほんのスタートですが、、、
今後も笑顔で心豊かに過ごせる居場所作りに邁進します。
どうかよろしくお願いします。
良いお年をお過ごし下さい。

 
私のサッカー人生は少年、高校で「全国」を夢見ながら「あと一つで。。。。」
常に悔しい思いの繰り返しだった。だがあきらめず努力をつづけた結果
1996年「全国社会人クラブサッカー選手権」で優勝を果たすまでに至った。
鹿島スタジアムでのアマチュア日本一に輝いた歓喜の喜びがそこにあった。
「続けていて良かった」と。
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*以下に平成6年度兵庫県高校HR教材用の副読本になった
福崎高サッカー部主将の卒業文集を掲載する。

あと一つで、、、、

高校生活三年間を振り返ってみるといろんなことが頭の中をよぎっていく。
その中でもサッカーで二度兵庫県準優勝をしたことはこれからの長く苦しい人生を
歩んで行く中で忘れることのできない「思い出」として心に刻まれていくだろう。
決勝戦に進出することは前々からの夢であったのでとても嬉しかった。
その日は生まれて最高の日でもあった。
何とも言いがたい高揚感が頭の先から足先まで充満した感じだった。
結果は負けてしまった。「あと一つで。。。。」だったのに。
とても悔しい思いがしたが「自分ながらによくやったなぁ~」の気持ちも強かった。
二度の決勝進出は貴重な体験を与えてくれた。
先輩方の苦労も少し報われた気がしたが、、、「優勝」という地位はほしかった。
先輩の代から血の滲むような練習をしてきた。
毎朝5時に起きて厳寒の中で地面に食いつくトンボでコンクリートの様な固さの
グランドを整備した。今頃、みんなはまだ寝てるやろうな、、、
休憩時間、昼休み、アイスクリームを食べながら楽しそうにくつろいでるみんなを
横目に見ながらグランド整備と石拾い。
真っ暗になるまでボールを追い、帰れば8時はとっくに過ぎていた。
そんな毎日だが少しも苦しいとは思わなかった。
好きなサッカーをやっているんだと思うとどんなことでも我慢できた。
そんな厳しい練習と気づいてやる雑用をやり切っても神様には通じなかった。
こんな福崎という田舎の学校の地道な努力が全国や県内各地から有力選手が
集まる環境抜群の有名私学高校にわかるはずがない。
うちには初心者も多く日本やユースを代表する選手などはいない。
こんなチームが決勝戦に進出することでレベルが低いとされる姫路のサッカーに
風穴を開けて夢と勇気を与えた。
無邪気にボールを追いかける少年までが応援に来て「すごい」と言ってくれる。
このことがうれしい。
自分たちのやったことがいろんな人に影響を与えていると思うと震えが止まらない。
だけど優勝だったらもっと良かったのに、、、、と最近思えてきた。
「優勝」と「準優勝」は雲泥の差がある。「あと一つで。。。。」
でもこれから長い人生を考え、歳を取るたびに壁にぶつかると思うと「準優勝」で
いいのかも知れない。苦しいとき「むちゃくちゃ悔しかった」ことを思い出して
「あと一つで。。。。」ということをなくしたい。
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私はこの生徒の「あと一つで。。。。」の思い、やり残したことこそが
今回のエストパーク完成だと思っている。
43年間私の元で戦ったきた生徒たちの怨念、力の結集だと思っている。
私は大会で負けた夜、卒業していく夜は部屋を真っ暗に一人で泣くことにしている。
「ごめんな、もっといい指導ができたらいい思い出が作ってやれたのに、、、」と。
今年の新春は一人で泣くのはやめて卒業生みんなと喜びあいたい。
その日がやっときた。