たるさんの部屋

  たるさんの部屋                   ・H29年12月末
             (1年間の)お 礼

  はや1年が経とうとしています。
 昨年は退職直後、エストパーク建設のために教員生活と全く違う分野などで
 たくさんの人たちに恵まれた出会いのおかげで「あっ」という間に「完成」の
 運びとなりました「強運」を感じた1年でした。

 今年は多忙な昨年と比べゆったりとした自由な時間が過ごせました。
 穏やかなこの1年を待つかのように2つの大きな出来事がありました。

*1つめ:6月父親が他界。
 父は昭和初期を代表する職人気質(かたぎ)の生き方。
 人が好きで私の友人や教え子が来宅すると「上がって飯でも食べていけ」
 「ゆっくりしていけ、わしが送ったる」遅くなると「泊まっていけ」が口癖。
 津田小学校で試合があるとメジャーやラインカー、石灰、ロープなどを軽トラに
 積み込んでライン引き。ゴールネットや整備用具の修理にとおお助かりでした。
 弔問客の多くが「お父さんには本当にお世話になった」の声にあらためて尊敬。
 オヤジの性格(DNA)がそのままに私の中に脈々と生きています。
  死の前日。歩けなくなった父が私のおんぶに初めて甘えて乗っかってくれた。
 最後の夜は家族がオヤジと二人っきりにしてくれ、夜中手を握りさすっていたら
 悟ったかのよに旅立っていった。眠るように、、、、
 残念なことはエストパークを見てもらいたかった。
 「よくがんばったな」と言ってもらえたかな?

*2つめ:11月三女好美が結婚
 家族を失う一方で新たな家族も出来ました。
 琴丘高サッカー部のマネージャーとして通学。卒業後はエストのスクールコーチを。
 審判活動では私の夢を追うように史上最年少(21歳)で日本最高峰の1級資格を。
 丁度なでしこが「Wカップ優勝!」など日本女子サッカーが最高潮の時期でした。
 だが度々の病やケガに手術、入院等を繰り返し10年近く苦しみどん底を味わう。
 その経験から自己と向き合い幾度か断食を繰り返し全国の神社仏閣を巡るかたわら
 「食」の大切さから自然食マイスターの資格を取る。また心理カウンセラーや
 ヒーラーとして終末施設で末期ガン患者に寄り添い「人のために」過ごしていた。

 その好美が※大塚晴弘さんと挙式を。
 結婚式当日は生徒や部員ではなく「娘:好美」に涙する一日でした。
 現在は人の体と心に優しい「※オーガニックカフェ」の開店準備に向けて
 奔走中です。また覗いてやって下さい。

*私の1年は45年目になる津田少年の朝練(6時30分出)から一日が始まり
 地域や学校、施設関係などから講演依頼を今までの実体験を中心にお話させてもらっています。
 ずっとやりたかった教育カウンセラーを生かせた活動もいい感じでできました。
 1年間ほんとうにありがとうございました。
 来年度も樽本家、津田、エストレラをどうぞよろしくお願い致します。

 ※「カフェ(AMETUTI)」(1月11日オープン)
  大津イオン南500m(大津小学校東道路を大津イオンに向かって右側すぐ)
 ※「大塚晴弘=ハルさん」は昨年までプロレフリー、国際審判として活躍。
  週末はJリーグ担当の傍ら好美と次の人生(似顔絵書き)を歩み始めました。

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  たるさんの部屋                       H・29・12
           変わること(53歳にして得た収穫)

  当時監督をしていた琴丘高校に津田の少年やジュニアユース時代にかかわった
 多くのメンバーが入部してきました。
  技術は姫路地区では高い方でしたが県レベルまではいかないレベル。
 私自身の指導の特徴で子どもたちを見つづけることで性格を把握していく。
 勝負時の大事な時はかわし、体を張らないプレーに明るく行動的で自己表現が
 できる一つ上の先輩たちとどうしても比べてしまう全体的に「甘い」学年でした。

*この子たちを見抜いてるという以前からの妙な自信から実際に指導していて
 「こうなるだろうなぁ?」「そろそろミスするぞ」「このあたりで大失敗に、、
 「そうやろなぁ、、、そうなるやろなぁ」と。あれも、これもと予感は的中。
 過去の指導実践(偏見、予断、先入観)からおおよそ予想がつく。
 すると疲れ、気が休まらずイラつく自分。これでは今までと変わらない。
 生徒たちも同様にミスができない、うまくやらないと、、、と息が抜けず過緊張に。
 すると失敗を恐れチャレンジしなくなる。これまた今までの生徒と変わらない。

◇50歳・カウンセラー資格獲得の志の理由は?、、、、
 「生徒を指導して強くして結果を出してやりたい」「生徒を何とかしたい」という
 おこがましさ、お節介な性格が現れる。これでは以前と変わらぬ状況に。
 自分を変えたいと飛び込んだのが志の理由のはずなのに。

■そこで思い切って「信頼し任せよう」と決断。
 「ミスも失敗も生徒のサッカー人生。そうしながら成長するもの」だと割り切ると
 すると少し楽になり、失敗すると「なんで?」と尋ね、ミスした時鋭く突いてたのを
 見ない振りをするのもありかな?と方法(やり方)を変えてみた。
 元気がない者には「どうしたん?」尻込みの者には「まずやってみては、、」と促し
 アドバイスを控えながら役割や責任を少しづつ与え生徒たちでやらせてみる方針に。
 私の指導方法のあまりの変わりように最初は生徒に戸惑いも、、、、
 だが次第に失敗しても「ええんや」と感じ始め、生徒間で「あーしよう、こうしよう
 これはどう?」と互いにコミュニケーションを取りはじめる。
 失敗しても「ゴメン」と切り替え次に向かう。うまくできると自信にあふれた顔に。
 ほめて認めて「なんでできた?」と聞くと嬉しそうに答えが返ってくる。
 すると人に頼っていた「甘さ」が消えて自分に厳しくなり目つきが変わっていく。
 朝練も居残り自主トレも競争心が芽生えグランドに活気が、、、
  〔今までにない光景と体験。これは強くなる気配、手応えが、、、〕
*練習から全員やることから、スタメンもベンチもサブもチームが一つになり
 その年度の兵庫県高校総体(インターハイ)予選を活気に溢れたまま勝ち進み、
 準々決勝、準決勝も実力高校との接戦を粘り勝ち。交代出場選手がヒーローに。
 そしてなんと誰も予想しない決勝の舞台へ。相手は全国屈指の強豪滝川二高校。
 今までやってきた持ち前の粘りで延長戦へ。最後は力尽きグランドに伏したが、、、、
 持っている力を全て出し切って「さわやかに」ピッチを後にした。
 半年前には甘く弱かった生徒が臆せず堂々と一生懸命、ひたむきに輝き戦った。
 そのピッチには長い間不登校の苦しみから脱した者もいてくれた。これがまた嬉しい。

※子どもは変わるもの。
 その後生徒たちは学校生活も歩く姿さえもカッコよく見えました。自信ですね。
 勉強も将来に向けチャレンジし進路希望も手に入れました。凄いです。

◆53歳にして得た最大の収穫。それは私自身が変われたことです。
 自分が変わることで相手も変わるということがわかりました。
 お蔭で常備していた睡眠薬、胃薬、頭痛薬に頼ることもなくなりました。

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  たるさんの部屋
               歳を取ってわかったこと

*「平凡」
  毎日同じことの繰り返し、こうなると一日が早くあっという間に歳を取る。
 「平凡」なあたりまえの毎日の中で「何かおもしろいことはないかな?」と
  少しの変化を見つけることができる歳になった。
  すると見ている空、太陽、夕日、星、時には雨音などの自然に対しても
  家族にもふだん会う人の見方を変えるといろんな変化があることがわかった。
 「今日は何かが起こる!」とワクワクと生きてみると「平凡」な生活にも
  おもしろいことが起こるということが歳を取ってわかった。

*「人生楽しむ」
  この歳まで生きてきたのだから人生楽しみたい。
  楽しむためには好きなことをやろうと思える歳になった。
  若い頃何でもネガティブに考え悲観し落ち込んで苦しんだものだが
 「辛」という字を一画変えれば「幸」に。
 「悲」は心に非ず、嘆かずに心の持ち方一つで楽しくなることがわかった。

*「自然」
  春に苗を植えても収穫は秋。いくら急いでも夏の収穫はむり。
  豪雨や台風、日照りなど自然には勝てない。
  若い頃は結果が欲しくて焦ったものだが物も人も育つには時間がかかり
 「自然」と「人の心」は変えれないとこの歳になってわかった。

*「身を委ね」
  若い頃は「夢」持って、目標を立て、叶えるために頑張って頑張って、、、
  だがあれこれ尽くしてもうまくいかないと焦り、失望し、嘆く。
  こんな時ジタバタせずに身を委ねて「時」が解決することもあるとわかった。

*「輝く」
  長く生きているときらきらと輝いてる人(生徒)と出会うことがある。
  その人のまわりには多くの人が集まる。
  その人は味わい深くおもしろく、時にはスリルがあって魅力的でまた不思議。
  その人は「うまくいかない時こそ、チャンス、かけがえのない瞬間」と語る。
  その人はつねにまわりに心を配り気遣いをしていることを歳がいくとわかった。

*「気づき」
  ふっとした瞬間、ちょっとしたことに「気づく」こと。
  小さな発見が自分を変えてそのたびに自分が成長することを知った。
 「気づき」は新発見と感動を生むこともこの歳になってわかった今
  もっともっと成長していい年齢を重ねたいものだ。

たるさんの部屋

  たるさんの部屋
          (前号の「普通」って、、、)に続く
           「普通」でまじめな子危ない!!

*「普通」でまじめな子は
  苦しくても一生懸命がんばっていればいつかいいことがある。
  汗水流して必死にやればやっただけ報われるもの。
  おかあさんやまわりの人の喜ぶ顔が見たいからがんばる!
 「人のために」何ができるか工夫し考えがんばる!
  できないのは「自分が原因」と自分を責め悩む。
  弱さや甘さを出さずもっとがんばらないと、、、と自らを叱咤激励。

*「普通」でまじめな子は手を抜いたり休むことはしない。
  授業をさぼったり、宿題や課題も忘れることもなくきちんと提出する。
  言い訳、校則違反、遅刻、ズル休み、適当でええかげんなことなどもできない。
  まじめに必死にやって親に認めてもらいたいが「もっとできるやろう」と。
  それどころか「卒業後は、夢は、将来は、、、」と次々と期待される。
  まわりも「あの子はまじめやから大丈夫!!」と勝手にレッテルを貼られる。
 「何が大丈夫なん?、、私もさぼりたいし、休みたいわぁ~~
  時にはワーッと叫んだり、助けを求めたり弱音も吐きたい、、、しんどい。
  でもおかあさんを悲しませたくないから、、、、我慢しか。。。」

 「友だちは大切。何でも相談できる子を選びとよく言うけど、、、、
  その友だち関係が難しく厄介なんや」
  携帯やラインのやりとりなど周りからは「孤立」し無視されないことが一番。
  仲間外れやイジメにあうなど一人ぽっちが最大の恐怖。
  甘えたりわがままを言い許しあい安心できるのが親友のはずが
  周りに同調し作り笑顔で対処して無事平穏に過ごすこととなると疲れる。

*「普通」でまじめな子は
  さまざまなことをきちんとやらないとと自らを追い込んでいく。
  それがうまくいかず解消できず抱え込んでいくとストレスとなる。
  寝不足になり徐々に疲れがたまり心身共ボロボロに。
  やがて、、、、
  誰もいない世界へ行きたい、現実から逃げ出したい。
  鍵をかけ家に閉じこもり一人になりたい。
  親もまわりも「えぇ-突然どうしたん?今までふつうやったのに、、」
  と驚くが突然ではなく積もり積もったものがマグマのように、、、
  そんなに苦しいなら「言えよ」と簡単に言うけど
*「普通」でまじめな子は「言えない」
  心が折れ、我慢の限界に、やがて起きれない、アレルギー、喘息、自律神経など
  さまざまな症状となり出てくる。そして「鬱(うつ)」に。
  こんなに苦しいなら死んだほうが「楽」かな?って考え始める。
  悲痛な心の叫びのサインを何度も何度も出すが、、、
  親は気づいてくれるかな??
  親は「あの時気づいておれば、、、」とはならないようにと願う。

*一番苦しんでいるのは「普通」でまじめな子かも知れません。
※世の中「命より大切なもの」はありません。

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              おかあさんの後ろ姿(1)

    躾け(しつけ)・・・親の(おしつけ)・・・子どもに(つけ)が、、、

  子どもが起きる前朝早くから仕事へでかけるおかあさんからの書き置き。
 朝食の食卓に「おにいちゃんへ。帰ってきたらおやつを買って」とお金が。
 帰ると近くの駄菓子屋で妹と弟の分を買うが自分の物は買わず貯めておく。
 理由は時として「このお金でおやつを、、、、」の書き置きがない日のために。

 大人になって振り返ると僕は好きなサッカーができるからしんどいと
 思ったことがない。
 辛く苦しかったのはおかあさんかも知れない。
 それでもおかあさんのグチや文句を聞いたことがない。
 そういうおかあさんを見て育ってきた。妹も弟もきっとそうだと思う。

 授業参観や運動会。サッカーの試合も見に来てくれることはなかったが
 寂しいとは思わなかった。おかあさんの大変さを知っているから。
 僕には先生や友だちがいたし、なにより好きなサッカーがあったから。
 特に先生や友だちにはよく家に呼んでもらって「おやつ」などいっぱい
 食べさせてもらったし。
 そんな話をしたら、おかあさんが「ごめんね」と言われるのが辛かった。

 おかあさんはほんとうに優しかった。
「勉強しぃ」とか「お手伝いしろ」とか絶対に言わなかった。
 おかあさんが家で休んだりTVを見たりゆっくり新聞や雑誌を読んでる姿を
 見たことがない。
 家事をしてるか仕事で疲れて帰っても内職をいつも物静かにやっていた。
 そういうおかあさんがそばにいてくれるだけでよかった。

 僕はいつも全力でがんばった。
 自分でできることは自分でしようと思っていた。
 友だちやみんなに「あれしろ、こうしろ」とえらそうに言ったことはないし
 文句も言ったことがない。
 自分ががんばっていればみんなもわかってくれる仲間だったから。
 それはおかあさんがそうだったのを見てきたから。

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*彼はいつも笑顔で厳しい練習も雑用も何一つ文句を言わず黙々とひたむきに
 打ち込む生徒だった。だから仲間も後輩も先輩までもが、また他のチームからも
 尊敬され慕われていた。未だかって彼を悪くいう人物に出会ったことがない。

 私の人生訓である「一所懸命、ひたむきに」は彼がくれたのかも知れない。

             おかあさんの後ろ姿(2)

  その生徒は練習前や遠征中、部室前でもスパイクを磨いて手入れを怠らない。
 雨、芝生、固いクレー、その時々にスパイクが違う。
「こだわりか、、、?」ここまでやるにはある意味プロ意識か、、、

 ある日、大雨の泥田のようなグランドでの試合後女子トイレから出て来た
 おかあさんたちの会話が聞こえてきた。
「すっごい雨やったね、田植えみたいや。さぁ~今日はいっぱいの洗濯物の
 お土産があるわ、、、」と楽しそうに。
 そんな会話を耳にすると誰のおかあさんか気になるものです。

 引退試合でそのおかあさんと話す機会がありました。
「先生、これで子育ても終わりました。
 子どものおかげでほんとうにサッカーが好きになり楽しませてもらいました。
 好きなことに打ち込んでる姿を見るのが誇らしく親として幸せでした。
 あの子らに感謝です。これからも子どもたちは好きなように生きてほしい。
 2年後主人が退職です。
 子どもに迷惑をかけたくないのであとは主人の実家で暮らします。
 子どもらは姫路がいいらしいので先生あの子たちを頼みます」

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 卒業後、うち(自宅)で打ち上げ。少し酒が回った時その生徒との会話。
「子どもの頃から几帳面?きれい好き?いつもスパイク磨いていたしグランドに
 よって履き替えていたし、、、」と質問すると
 (返答は意外にも、、)
 自分の部屋は片付けないし、おもちゃもほったらかし、全て出しっぱなしでした。
 それでも学校へ行くときは「靴」がピカピカに綺麗に拭いてある。
 泥だらけで遊んで帰っても(母)「泥だらけやな、靴も服も、何して遊んだ?」
 と楽しそうに聞いてくれたらしい。
 一度だって「汚いなあ、もう、、汚すなよ」と怒ったことがなく次の朝は綺麗。
 スパイクを買い初めの頃はいつも(母)が拭いて磨いてくれたそうで
 「このスパイクで何点取った?今度点取れるようにお祈りしながら磨くわ」と
 おかあさんが言った日からサッカーの話をしながら一緒にスパイクを磨いたと。

 ある日「雨や芝生やグランドによって違うわ」と言うとおかあさんが
「一足履きつぶすよりいろんな形を2、3足使ったようがええんと違うか?」
 と、すぐに一緒に買いに行ってくれた。
 その日なんと3足も買ってもらったが子ども心に「うちはお金持ちでもないのに
 すごい金額や、悪いなぁ~」その日から「物は大事に使おう!」
 手入れもして用具を粗末にしたりほったらかしにしなくなった。
 その日からいろんな物を大切にする気持ちが大人になった今でも続いている
 おかあさんから「物を大事にしなさい、もったいない、綺麗にしなさい」って
 言われた記憶はないが大人となって今生活していても掃除、洗濯、料理など
 苦痛ではなく何でも一人でできる。

 そういうふうにさせてくれたのはやっぱりおかあさんかな。

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     たるさんの部屋            2017、10、1(67歳)

                〔普通〕の子
  長い教師生活でよく耳にした言葉です。
 今までにも掲載しましたが勤務していた各高校の卒業生と食事会などを催し
 久しぶりに出会うと懐かしい学生時代の昔話に話が弾みます。
 その中で生徒たちがよく質問してくることがあります。
 それは、、、
 ◆先生、クラス分けの時はどのような方法でクラス替えをするんですか?
  仲間うちで俺らきっとたるさんのクラスになるで、、、ってよく話してた。
 ◇なんで?
 ◆だって俺ら〔普通〕やないし、、、
 ◇なんで〔普通〕と違ううん?
 ◆勉強できない落ちこぼれやし。校則破るし停学も。問題児でワルのレッテルを。
  素直やないから先生らに嫌われとうし。
 ◇自分で言うかぁ(笑)よぅわかっとうやんか~~
  おまえたちの〔普通〕って何?「問題児」って何が問題なん?
  「落ちこぼれ」って誰が判断して〔こぼし〕とん?それは先生か?
  おまえらは校則違反だと知っておきながら守らへんのやろう?
  逆らうのは理由があるけど「どうせ言ってもわかってもらえない」と言わないし
  その上うまく伝えられないし。
  それでイライラして切れて態度に出て不貞腐れて余計に印象を悪くする。
  エネルギーがあふれすぐ感情的になって気持ちが押さえられない。
  真面目になるとかっこう悪いと思うから素直になれない。
  妙に先生にすり寄り機嫌をとって賢いふりなどできない。
  へんな意地があるし。まぁ思春期、高校生はこんな時期やろう。。。
 〔普通〕ではないおまえらのちょっと生意気がちょうどいい感じで好きやったで。
  それこそ〔普通〕の日などなく変化あって毎日がおもしろかったわ。

 ※〔普通〕の生徒ではなかったと言っていた生徒たちがいい大人いい男に。
  バリバリと仕事をこなしイキイキと話している「生きてる感」がする姿を
  目にするとあらためて結局〔普通〕の子って何?と思わずにはおれません。
  高校時にわからなくても大人になって気づいてくれたらという思いが
  卒業後の「再会」でその答えが出ていました。
  大病以来あまりお酒は飲めないが気持ち良く酔えた「出会いの日」でした。

          「生徒に出会って生徒に育てられて」
  若い頃にはすぐにカッーとなり怒鳴ったり力で押さえようとしてました。
  上から目線や権力、立場を利用し押さえにかかる愚かさが恥ずかしくなります。
 「教師力」がないばかりに寝れないほど悩み、その中で生徒たちに気づかされ
  成長させてもらったような気がします。
  生徒を変えようなど到底ムリ、それはおこがましいことだと気づき、
  自分のやれることしかできずそのあとは生徒を信じるしかなかった。

  教師として生徒を見る、見つづける。
  人(他の教師)とは違う〔普通〕の見方をしないように心掛けてきたつもり。
  そうすると生徒の本音(言ってることやってることが違うこと)に気づく。
  あえて「ワル」ぶる生徒が実は繊細で友だち思いで弱い者に寄り添い優しい。
  学校やクラス行事等で裏方や人の嫌がる掃除、仕事などをこなす姿を見ると
  仲間、生徒間(先生には人気がなくとも)には慕われていたことにも気づけた。
 「行き場」のない生徒の「行き場」を無くしてはいけない思い、せめて自分の所に
 「来てくれたら、、、」とずっと思ってましたが。

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     たるさんの部屋

              お 役 目

 歳を取ると体力は落ちますね。仕方のないことですが、、、、
 でも嬉しいことに心の方は衰えるどころかまだ成長してる実感があります。
 ・20歳代:一生懸命やるが、、、(期待に応えたいばかりに)
 ・30歳代:忙しくて日々必死、、(結果がほしいばかりに)
 ・40歳代:苦しくて大変、、、、(ステータスを得たいばかりに)
 ・50歳代:少しは楽しさが、、、(まわりを使う術を知ると、、、)
 ・60歳代:先、見通しが見えて、(ニンマリとこれも経験から得たかな、、、)
 ・67歳今:人生はこれから、、、(スタートラインに立った)

 退職して規則、枠、時間に縛れないで好きな時に動けるのがいいです。
 思い描くことや考えることもうまくまとまり、したいことが「スーッ」と視界が
 開けるんです。だから日々楽しいです。
 出会いは(必然)で意味があると思えるようになりました。
 心が動けば会えばいいし無理して会うこともないとも思えるようになりました。

◇平成29年4月からは
 「子育て」で悩んでいる保護者や学校へ行けない子どもとも拙宅で面談を
 (カウンセリング)する時間ができました。
 学校勤務中ではできなかったことが今はゆったりとできています。
 その傍ら、エストレラ姫路や津田では以下のような講座を毎月開いてます。
 (1)少年対象:「こころ塾」(2)ジュニアユース対象:「メンタルセミナー」
 (3)少年、ジュニアユース年代の母親対象:「子育てママ塾」
 また
 ・4月:姫路市まちづくり振興機構広報誌(パンフレット)の記念すべき第1号に
     姫路のまちで活躍している人物として掲載していただきました。
 ・5月:ケーブルTV「ウインクひめじ」30分独占インタービュー番組
    「ひめじのチカラ」に出演させてもらいました。
 ・7月:市川町で保育士や保育園経営担当者対象に講演
 ・8月:加古川市並木学園英数学館の職員研修に講師として
 ・10月:姫路市後援の男女共同参画のコメンテーターとして出演予定。
     「子育てママ塾」コーデネーター。
      高校のPTA対象の講演会講師。
 ・12月:神崎郡で講演の依頼が、、、。

   上記のようにこんな私にオファーが来るって幸せなことです。
  これも神様からいただいた「お役目」だと思っています。
  そんな機会(おかげ)で次々と出会いがあります。
  あたりまえのことですが自分の出来ることは頼まれたら断らず
  必要とされている限りは何歳になっても引き受けるつもりです。

   教育という道を選んだ限りは退職しても教育を辞めるわけにはいかないです。
  教育は学校だけではなく地域でも子どもや人々と出会え接する機会がある限り
  教育を続けたいです。

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   たるさんの部屋                   ・29年夏号

     数々の汗と涙と思い出と共に、、、、
                最後の夏「大山」の夏

 福崎高校赴任30歳台初めの頃「夏の入校訓練」として「大山登山」や
 オリエンテーリングを立案、実行。鍛練と称して若気の至りの指導を思い起こす。
 当時の生徒ももう50歳前後に、、、、、。
 卒業式翌日には「卒業スキー旅行」とサッカー部員やクラス担任の生徒を連れて
 冬の大山を楽しんだものだった。
 教師として青春を過ごし懐かしの思いを馳せながら
 (大病後)ペースメーカーを埋め込み再び大山にお世話になるとは、、、
 津田サッカークラブ単独で「大山合宿」を開始したのが20年前。
 そして現在の「山香荘」へは当時の施設長からのお誘いを受けて18年が経った。

 豪雨、霧、酷暑の中。一致団結敢行した「大山登山」。登り下りの約4時間余りには
 数々のドラマが、、、子どもたちは卒団式に「大山登山」の思い出を語る。
  私自身も福崎高校教員時代は生徒と先頭を切っての「大山登山」は
 この体では「もうできない」とあきらめていたが生徒に励まされ施設長に付き添われ
 「大山登山」をやり遂げた感激は一生忘れられない思い出となった。
 何より「出来た」喜びと私自身がその後生きる力の大きな源となった。

 数年後には琴丘高校サッカー部もジュニアユースと合同で「大山合宿」に加わり
 秋の県高校選手権に向けて強化、早朝より鍛えに鍛え恒例の100本ダッシュに
 ランパスを繰り返す「大山合宿」ならではの雰囲気と環境に異様な高揚感、興奮が
 高まり「できないことが出来る」「一気に変われる」のが「大山合宿」でもあった。
 そのお蔭か、、、常に県上位に進出し53歳の時には再び県総体ファイナルへと。
 それは大山での強化が大きく影響したのはまぎれもない事実である。
 そしてその「魂」は次の転勤先姫路高校サッカー部へと繋いでくれた。

 その一方では「レクレーション」では子どもたちの出し物で大いにわき、
 私が司会をし子どもたちとの「笑点」で食堂が笑いの劇場に。楽しかった。
 「たるさんのスペシャルショー」では手品、クイズ、日本昔はなしなどを披露。
 ネタを考え仕込むのも私の夏恒例の楽しみの一つでもありました。
 バーベキュー、花火、肝だめしやナイター照明の元で大いに楽しみ歓声を包まれた。

 今年もはやりドラマが生まれた。
 おとなしく覇気がなく「元気が出せ、声を出せ、自分からやれ!」と言われ続けた
 6年生が100本ダッシュ(この夏ついに500本達成)。5年生がランパスを。
 5年生は翌日「大山登山」下山後すぐになんと100本ダッシュを。
 スタッフ陣も「まさかこの子が、、、」ふだんと違った頑張りを見せてやり切った。
 その姿に「感動!感動!!」見ているコーチたちも涙流せずには。。。。
 ジュニアユースは全国レベルの強豪米子北高(サブ)が胸を貸してくれたあと
 大山締めくくりにと「ランパス30分×2本」を叫び声と必死の形相とでやり切った。
 「たるもと=大山」には100本ダッシュとランパスがよく似合う。

 母親の介護からオヤジの看病へと長く続き、樽本家を空けれられずいた20年間。
 この6月にオヤジを亡くした結果、家族ほぼ全員が大山に揃った。
 最後の「大山」と悟りオヤジからの子どもや孫へのプレゼントだったかも知れない。

 「大山」最後の夏が終わった。感傷、、、 正直寂しい。。。
 20年間「大山」を共にした生徒、スタッフ全てのみんなにあらためて感謝!!。

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たるさんの部屋                  H29、5、24

ケーブルTV     「ウインクひめじチャンネル」
番組「はりまのチカラ」インタビュー内容

〔質問〕:サッカー少年でしたか?

・出産時(産婆さん)から母親に「この子はあきらめなさい」と言われたそうで
私の幼い頃の記憶は体が弱く病院通いと「絵」を書いていたことしか覚えません。
・低学年では運動会の徒競走でもビリに近く、運動のできない少年時代でした。
・ですがスポーツに興味、関心はありスポーツ観戦は大好きでした。
選手の名を覚えたりスポーツ雑誌や指導専門書を読んでいた記憶があります。
・10歳ごろに「体が弱いままでは、、」と思い朝早く起きて、また夜寝る前にも
近所を走ってました。すると体力がついていくのがわかり長距離なら人並に
走れる自信がつき学校を休まなくなりました。

〔質問〕:大学を体育大学出身ですよね、なぜ、、、

・中学、高校時代は受験に失敗。うまくいかずいい思い出がありませんでした。
・でも「夢」はスポーツ記者になること。ですが志望大学を7つ全て受験を失敗。
スポーツ記者の夢も、、、落ちたショックで何も考えられずに浪人を覚悟。
・高校の体育の先生から「スポーツが好きなら指導者になってみては、、」との
アドバイスに1960年代当時オリンピンク選手やインターハイ、国体で活躍した
超一流が集まる体育系大学で超名門の「日体大」とは中身を何も知らずに入学。

〔質問〕:サッカーを選んだわけは、、、

・中学、高校と陸上部で陸上競技は生まれながらの才能やセンスが必要。
当然運動音痴の私が記録や結果は出せるわけもなく大学では
「アメリカンフットボール」がやりたいと思っていました。
理由は走れる体力が少しあり、チームプレーや頭を使うスポーツで
大学から始める人も多く同じスタートラインに立てるのでは、、、と。
ですが事情があり入部できず寮に空き部屋があったサッカー部へ。

〔質問〕:大学で初めてサッカーをしたということですか?うまくいきましたか?

・入部志望動機も強くなく、初心者などでは通用するはずもなく雑用係1年間で
ユニホームに袖を通すこともなく退部することになりました。

〔質問〕:高校教師になった、そのキッカケは?

・学生時代は先生というイメージが悪く教師にはなりたくないと思っていました。
しかも大学の事前調査もせずに「日体大」に入学したバカさ加減に嫌になっていました。
①自分のやりたいことではない、②自分の居場所でもない。
落ち込んで大学を辞めて姫路に帰ろうと考えていました。
※その時です。私の人生「第1の転機」になる同級生と出会います。
彼は私に「教師になろう」と引っ張ってくれて教員採用勉強も一緒に支え励まして
くれました。彼がいなければ今の私は当然なかったと思います。
同級生ですが人として尊敬ができ男としてあこがれでいつも教師の目標でした。
生徒を思う心の強さは出会った教師の中でも彼の右に出る人は未だにいません。

〔質問〕:高校教師は何年勤められましたか?

・人が好き、子どもが大好き、お節介という性格が生かせる職業でした。
生徒のお蔭で、生徒に支えられて「43年間」無事終えることができました。
学生時代教師にはなりたくない思っていましたがわからないものです。

〔質問〕:高校教師と並行して津田SCの指導を始められていますがキッカケは?

キッカケは2つありました。
(1つめ)は大学を出て定時制高校の分校に6年勤務しました。
教師として何もできない私に定時制の生徒はたくさんのことを教えてくれました。
昼間は仕事を持ちながら夜学校に来て勉学に励む生徒たちを見て
「よし!高校教師をしながら、もう一つ地域で何かしたい」と。
(2つめ)は子どもが好きで子どもといたいとスポーツ少年団を結成しました。
<サッカークラブを設立の理由は>
・当時サッカーは人気のない競技でしたが広いグランドを自由に

子どもたちの考えで楽しめるという理由で募集し40人集まりました。
・設立時にはサッカー素人である私が「3年後にこの子たちと「全国」に出る」
と公言をして(ひんしゅく)をかいました。
思いつくとすぐに口に出して行動するためにたびたび失敗もしてきました。
でもやらないで後悔するよりやって失敗の方がいいという性格です。

〔質問〕:津田SCは10年後に社会人チームを新設されたのですね?

・1974年(23歳)地域密着をビジョンに掲げ少年部を設立しました。
20年後に発足したJリーグの理念も「地域密着」(先を行ってましたね)
・狙いは教え子が中学から高校生となりやがて10年後には大人となる。
その時の居場所の準備として社会人チームを創部しました。
教え子が社会人となり指導者として戻り次の世代の子どもたちを教える。
教え子の子どもが入ってくる。私の大好きな言葉である「夢の循環」です。
社会人チーム結成5年後に「全国社会人サッカー選手権」に出場し後4度全国へ。
そして1996年には「歓喜の瞬間」が訪れます。
全国クラブチーム選手権優勝!!「アマチュア日本一」になります。

〔質問〕:サッカー経験が少ない監督がサッカー指導、難しくなかったですか、、、

・自分にサッカー経験がないというのは凄いハンディでした。
子どもに頑張れというなら自分も子どもに負けないで勉強しようと必死でした。
・トレーナーやスポーツ指導員など資格を取りに、また強いチームがいると聞けば
足を運び指導を仰ぎ、遠くは関東、静岡、西日本各地出掛けていました。。
・当時大学日本一だった大商大には長期休みごと日参して全国の有名強豪高校に胸を
借り、お蔭で無名だった勤務校福崎高校が2度兵庫県のファイナルや近畿で3位に。
個人も国体選手が数名。日本リーガーや日本ユース代表候補まで輩出するまでになりました。
※恥ずかしさ、遠慮、ためらいもなくどこにでも出掛けられたのは
「サッカーの経験のない者の強み」がそうさせたのかも知れません。
・福崎高校では私の人生の「第2の転機」になった教え子たちに出会います。
私に指導力がなく、ただ厳しいだけでしたが信じてついて来て、支えてくれ
数々の栄光を手にしてくれた二代に渡る主将たちです。
〔質問〕:指導する時に大切にしているのは、、、

(1)「自立」
・指導しすぎずに自分で考えさせ(自立)させることです。
・生徒の一番の特長を見つけ、そこを消さないで伸ばすことです。
(2)「あきらめない=努力の天才」
・物事はうまくはいかない。うまくいかないから工夫し考え粘り強くやり続ける。

〔質問〕:長年指導者をしていて印象に残ることは、、、

◆私の人生の「第3の転機」(厄年41歳)になった事です。当時の生活は
(1)5時半起床で一日の準備から始まる。
(2)6時半には津田SCの朝練を。指示して途中から福崎高の朝練へ
(3)福崎高では授業後→クラブ(サッカー指導)を7時過ぎまで。
(4)サッカー素人の私が日本リーグの審判のためトレーニングを生徒と一緒に。
(5)家庭訪問のかたわら→週2回津田社会人のナイター指導→9時すぎ帰宅。
(6)帰ればサッカー部員やクラスの生徒の交換ノートにサッカーだより作成。
(7)「週末」は少年や高校の試合。選抜チームのコーチ、審判活動。
・1日2時間の睡眠という日が続くが楽しい日々(私にやっと青春が、、、)
もっと時間がほしいと思う矢先、、体調に異変が、、、、
ムリにムリがたたり医者から「あと3週間の命」と(人生終わったと、、)
・入院、手術、リハビリ3ヵ月間は「死に対する恐怖、将来への不安」と
「なんで俺が、、、ねたみ、ひがみ」の毎日。人生どん底へ。
※心臓にペースメーカーを埋め込み手術。なんとか命をつなぐ。1級の身体障害者に。
毎日大勢の生徒たちの見舞いに励まされ退院にこぎつける。
・退院後は通院の中で「今までのやり方ではいけない、違う自分に出会いたい」と
願う一方で
☆神様は「私をこういう体にしてくれたのはきっと何か意味があるのでは、、、」
と考えるまでに1年半かかった。
そしてその答えは
①休むことを覚えた、②体が無理なら「心」で生徒に寄り添うこと
・退院後は新勤務地琴丘高校では身障者となりましたが
「少し不自由だが不幸ではない。生きてるだけでもうけもの、残り人生人助け」
※人生の最大の危機だったピンチをチャンスにする生き方をびました。

・琴丘高校サッカー部に着任し、いつもの目標である「3年後に姫路でトップ」
「5年後に兵庫でベスト4」の目標を果たしつつ「6年後には全国へ」
だが決勝では全国屈指の強豪となった滝川第二高校に敗れ夢は消えました。
個人として数名の国体県代表、Jリーガー4名、日本代表も出てきてくれた。

〔質問〕:2000年にNPOを法人を設立されましたが、、

 ・人口55万人中核都市姫路に当時はサッカー専用の芝のグランドは一つもなく
Jリーガーも数名、日本代表もやっと一人程度。
・青少年を強化しないと姫路は、、、と危惧したサッカー指導者仲間が集まり
2年にかけて下準備をして2000年に現在のエストレラが誕生します。
・2000年は私も50歳。教員の集大成に向けての年齢になっていました。
<10年後のビジョンは>
(1)エストレラを陰から支える。
(2)津田SCも40年を迎え充実させる。
(3)琴丘高では学年主任をさせてもらいながらもう一度全国の「夢」を果たす。
*だが県総体決勝で現:日本代表の岡崎擁する滝川第二に又も敗退します。
(4)カウンセリング資格の取得を目標として一番<勉強>をした年代です。

〔質問〕:姫路が好きなんですね

・姫路で生まれ姫路で育ちました。生徒や子どもたちには「県外や世界へ行け!」と。
でも戻ってきてほしいんです。子どもたちが「やはり姫路はいい」と自慢できる
「街づくり」をする責任が我々大人にはあります。

〔質問〕:エストパークがこのほど完成しましたが、選手は、、、

・17年近く悪環境で選手たちは取り組んで来ました。やっと活動拠点である
ホームグランドができました。これほど嬉しいことはありません。
北側に山。南側に海。グランドに立っているだけで気持ちのいいこの場で
イキイキとサッカーに取り組んでいます。本当に作ってよかったです。

〔質問〕:これからの目標は

・還暦パーティの挨拶では「退職後サッカー場を作る」と公言しました。
それが昨年11月「エストパーク」として実現しました。
・66歳の今、教師を退職してからの目標は※「居場所」作りです。
(1)子どもたちの帰る場所(故郷)
(2)選手の強化の場、経験の場。
(3)健常者、身障者、高齢者さまざまな人が集い楽しむ場所。
(4)ハンディを背負った方々の活躍の場。
※野球は甲子園、サッカーは国立、身障者スポーツはエストパーク。
(5)不登校、閉じ籠もり等、学校や社会へ出ずらい人がゆっくりおれる場所。

〔質問〕:樽本さんの選手指導理念、目的

・サッカーで勝つ、結果を出す、全国へいくとかは2の次、3の次で
「人に好かれる人間作り」が目的です。
・40年以上掲げている〔指導理念〕
(1)一所懸命ひたむきに
何でも決めたら見ている人々が感動するくらいに「一所懸命ひたむきに」
(2)人のために
相手に「ありがとう」と言ってもらえる生き方「人のために」にどう動くかです。

〔質問〕:樽本さんのチカラの源は、、、

・私のチカラの源は「生徒と出会って生徒に育てられて」です。
この年になってこうして夢が見れ、語れるのも教え子たちのお蔭です。
「ありがとう」の感謝しかないです。これからも教え子たちと夢を追いかけたい。

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◆ケーブルTV「ウインクひめじチャンネル」「はりまのチカラ」は
6月中に放送があります<放送時間>は
<月、火曜>・11:00~11:30<水、木曜>・19:30~20:00
<金曜>・16:30~17:30  <土、日曜>・8:45~9:15
*インタビューの内容はいくつか編集されているとのことです。
よろしければぜひご覧下さい。 

たるさんの部屋アップしました

たるさんの部屋                    2017、5、10

各赴任先高校で体育授業で取った
<アンケート第2弾>

*テーマ:中学時代に言えなかった「あかあさんへ」

・子どもの頃にいっぱいほめてくれたのに中学になるとどうしてそう悪く言うの?

・「おかえりー」のあとは少しだまっていてほしかった。

・中3の頃、塾のせいにして帰りがいつも遅いこと気づいてないやろうなぁ~。

・めちゃくちゃ怒られ泣いた。あれで私が「納得したとでも思ってるの??」
「もう言うてもわかってくれへんな」とあきらめたわ。

・「何でも話して、、、」というたびに「あんたって、、、」と説教になった。

・「自分に自信を持て」って言うけど「自信を無くすことばかり」言うくせに。

・「あんたは気が弱いからあかん」私はおかあさんのように「やつあたり」は
できへん。

・「無口で何を考えてるかようわからん」と言われるけど話したくなるような
聞き方を絶対にしてくれへんかった(実は私はおしゃべりやで)

・家で怒られて中学校へ行く途中に保育園の時の先生が声をかけてくれた。
「元気?」笑顔で優しい声やった。

・「信用できへんわ」とたびたび言われて育った私が人を信用できるはずがない。

*テーマ:最近の「高校生事情」

・おかあさんとケンカして「こんな家なんか出ていくわ!」って言ったら
「あんたがこの家を出るときはな、嫁に行く時やでぇ」

・たるさん、嬉しいこと聞いて「親がやっと離婚した」
これで開放される、今度住むとこは古く狭いけど自由がある。
オヤジが帰ってくるたびにビクビクしなくていい。
おかあさんとの夫婦ゲンカを見ずにすむ。
今は楽しい。一生懸命がんばっておかあさんを楽にさせたい。

・お兄ちゃんと比べるのやめて。そりゃお兄ちゃんはまじめやし勉強もできる。
うちが家にいたら「ジャマや」というオーラ出さんといてほしい。
私はどこにいたらええん。

・口を聞きたくない日もある。クラブや友だちや学校でいろいろあってソーッと
してほしい構わんといてほしい時だってある。それくらい気づいてほしい。
私だっておかあさんのその日の雰囲気、感じはわかるで。

・おとうさんが苦手でどうしたらいいか悩んでいたら、今日のたるさんの授業で
少しはわかった。
理由なしにイヤになる、けむたい、一緒にいたくない時がある。と。
今の私がそうや。好きやけどでも嫌い。こういう自分がわけわからんと思っていたが
みんなそういう時期があると聞いてほっとした。
たるさんが言ってくれたおとうさんの見方を変えてみるわ。

・高2になると進路、志望校など決めなあかん。でも決められへん。
子どもの頃ずっと「夢」を持ち、将来をどうするか決められへんかった。
「あんたには夢ないん?まわりの子はしっかり目標があるのに、、、
あんた見てたらいつもハッキリしないからイライラするわ」とお母さんは言う。
大好きなおじいちゃんやおばあちゃん、口うるさいお母さん、無口だけど
黙々と仕事しているお父さんとこの家でずっと暮らしたいと思うのが「夢」
そう思うのはあかんやろうか?

・テストでいい点取って少しでも順位あげてとがんばってるつもりやけど、、、
頭も要領も悪いし徹夜してがんばるけどテストが返ってくるたびにへこむ。
親がその結果をみるたびに「やっぱしな、、あぁまたか、、、」って顔をする。
何も言わずに。これがまた辛い。作り笑顔で返すけどいっぱい、いっぱいや。
部屋に入って「ワーッ」と叫ぶけど。試験のない世界へ行きたい。
現実に戻ると自分のバカさ加減にむかつき毎日が苦しい。

・おかあさんと私の3者面談のあった後、たるさんが廊下で
「おまえのなんともいえないあったかい感じはおかあさんそのままやな」って。
メチャメチャ嬉しかったわ。
 

樽さんの部屋アップしました

たるさんの部屋

人生は「思い通り」にいかないもの

人生は楽しい日ばかりではありません。でも苦しい日ばかりでもありません。
「いろいろあるから人生」と言える年齢になってきました。

*私の子どもの頃や学生時代にはあまり「いい思い出」がありません。
母親によると産まれた時は産婆さん(古い時代ですね)からは「危ない」と言われ
マリア病院に運ばれ長く入院してたそうです。
物心がついた頃から病弱で家の中でズーっと絵を描いていたことを覚えています。
近所のかかりつけ医には学校より多く通っていた記憶があります。
体力はなく色白で小柄。朝礼や集会で座り込んだり倒れたりイヤな思いが、、、
低学年では当然運動はできず足は遅く運動会の徒競走はビリの部類でした。
でもスポーツに興味があり見ることは大好きでした。
4年の終わり頃から毎朝早く起きて、また夜寝る前にも近所周辺を走っていました。
子ども心に「強くなりたい」と体作りの本を買って見よう見まねでやってました。
中学時代はスポーツ記事をまとめたり運動の専門書をよく読んでいました。
努力したりスポーツについて読み書きしたことがその後生かされたかも知れません。

*中学受験に失敗。公立志望高校にも失敗。大学など受験7校全てに不合格。
たどりついた先は予備知識のない調べもせずに希望校でない「日体大」へ。
ご存じように昭和40年代は全国レベルや超スペシャリストの運動集団の体育大学。
徒競走でビリの運動能力やましてやサッカー経験のない初心者の居場所では
ありませんでした。スポーツ歴としては何もない青春時代が終わりました。

*でもそんな私がイキイキとできる時期がやってきました。
それは「教師」になってからのことです。
子どもや人といることが好きで「お節介な性格」が生かせる仕事です。
体が弱い子。運動のできない生徒。レギュラーが取れないベンチ暮らしの選手。
仕事(用意、準備、整備、あと片付け)ができ周りへ「気づかい」ができる生徒に
目が届き気持ちがわかってあげられたのは自分がそうだったからかも知れません。
「教師」生活をしながらやっと青春が来て「うまくいってるなあ~」と
思っていたらとんでもないことに。あと3週間と寿命を切られる大病に。
辛くどん底に落ちました。でも苦しくイヤなことばかりではありません。
多くの生徒に囲まれて「夢実現」であるエストパークができました。

*思い通りにならず悩んでる生徒には
「うまくいかないやろ、、、辛いやろう、、、でもいつかいい日が来るから、、、」
「動作が遅くてもうまく出来なくても勉強できなくても、人生あわてずゆっくりと
笑顔で〔人のため〕にさせてもらっていたらきっといいことがある」と。
「いいことって何?」と聞く生徒には「ありがとう!」と言ってもらえるよ。
私のジッ体験を伝えることにしてます。それしかできませんが、、、。

*「挨拶」を交わすと人と人の〔間(あいだ)〕に心が通い〔人間〕同士になれる。
人間同士が同じ目標に向かうと「信頼」が中に入り→人+中=〔仲〕間に。
人間関係を構築する大事なことは人と人の〔間(ま)〕→「間合い、距離間」
付きすぎず、離れすぎず絶妙の「タイミング」と繊細な「気づき」がポイント。
人間関係も「思い通りにいかないもの」と思うほうがいいかも知れません。
特にそばにいる夫婦間のことや我が子を思い通りにしようとしないことですね。

*今日も明日もいい日が来ますように。