たるさんの部屋                  H29、5、24

ケーブルTV     「ウインクひめじチャンネル」
番組「はりまのチカラ」インタビュー内容

〔質問〕:サッカー少年でしたか?

・出産時(産婆さん)から母親に「この子はあきらめなさい」と言われたそうで
私の幼い頃の記憶は体が弱く病院通いと「絵」を書いていたことしか覚えません。
・低学年では運動会の徒競走でもビリに近く、運動のできない少年時代でした。
・ですがスポーツに興味、関心はありスポーツ観戦は大好きでした。
選手の名を覚えたりスポーツ雑誌や指導専門書を読んでいた記憶があります。
・10歳ごろに「体が弱いままでは、、」と思い朝早く起きて、また夜寝る前にも
近所を走ってました。すると体力がついていくのがわかり長距離なら人並に
走れる自信がつき学校を休まなくなりました。

〔質問〕:大学を体育大学出身ですよね、なぜ、、、

・中学、高校時代は受験に失敗。うまくいかずいい思い出がありませんでした。
・でも「夢」はスポーツ記者になること。ですが志望大学を7つ全て受験を失敗。
スポーツ記者の夢も、、、落ちたショックで何も考えられずに浪人を覚悟。
・高校の体育の先生から「スポーツが好きなら指導者になってみては、、」との
アドバイスに1960年代当時オリンピンク選手やインターハイ、国体で活躍した
超一流が集まる体育系大学で超名門の「日体大」とは中身を何も知らずに入学。

〔質問〕:サッカーを選んだわけは、、、

・中学、高校と陸上部で陸上競技は生まれながらの才能やセンスが必要。
当然運動音痴の私が記録や結果は出せるわけもなく大学では
「アメリカンフットボール」がやりたいと思っていました。
理由は走れる体力が少しあり、チームプレーや頭を使うスポーツで
大学から始める人も多く同じスタートラインに立てるのでは、、、と。
ですが事情があり入部できず寮に空き部屋があったサッカー部へ。

〔質問〕:大学で初めてサッカーをしたということですか?うまくいきましたか?

・入部志望動機も強くなく、初心者などでは通用するはずもなく雑用係1年間で
ユニホームに袖を通すこともなく退部することになりました。

〔質問〕:高校教師になった、そのキッカケは?

・学生時代は先生というイメージが悪く教師にはなりたくないと思っていました。
しかも大学の事前調査もせずに「日体大」に入学したバカさ加減に嫌になっていました。
①自分のやりたいことではない、②自分の居場所でもない。
落ち込んで大学を辞めて姫路に帰ろうと考えていました。
※その時です。私の人生「第1の転機」になる同級生と出会います。
彼は私に「教師になろう」と引っ張ってくれて教員採用勉強も一緒に支え励まして
くれました。彼がいなければ今の私は当然なかったと思います。
同級生ですが人として尊敬ができ男としてあこがれでいつも教師の目標でした。
生徒を思う心の強さは出会った教師の中でも彼の右に出る人は未だにいません。

〔質問〕:高校教師は何年勤められましたか?

・人が好き、子どもが大好き、お節介という性格が生かせる職業でした。
生徒のお蔭で、生徒に支えられて「43年間」無事終えることができました。
学生時代教師にはなりたくない思っていましたがわからないものです。

〔質問〕:高校教師と並行して津田SCの指導を始められていますがキッカケは?

キッカケは2つありました。
(1つめ)は大学を出て定時制高校の分校に6年勤務しました。
教師として何もできない私に定時制の生徒はたくさんのことを教えてくれました。
昼間は仕事を持ちながら夜学校に来て勉学に励む生徒たちを見て
「よし!高校教師をしながら、もう一つ地域で何かしたい」と。
(2つめ)は子どもが好きで子どもといたいとスポーツ少年団を結成しました。
<サッカークラブを設立の理由は>
・当時サッカーは人気のない競技でしたが広いグランドを自由に

子どもたちの考えで楽しめるという理由で募集し40人集まりました。
・設立時にはサッカー素人である私が「3年後にこの子たちと「全国」に出る」
と公言をして(ひんしゅく)をかいました。
思いつくとすぐに口に出して行動するためにたびたび失敗もしてきました。
でもやらないで後悔するよりやって失敗の方がいいという性格です。

〔質問〕:津田SCは10年後に社会人チームを新設されたのですね?

・1974年(23歳)地域密着をビジョンに掲げ少年部を設立しました。
20年後に発足したJリーグの理念も「地域密着」(先を行ってましたね)
・狙いは教え子が中学から高校生となりやがて10年後には大人となる。
その時の居場所の準備として社会人チームを創部しました。
教え子が社会人となり指導者として戻り次の世代の子どもたちを教える。
教え子の子どもが入ってくる。私の大好きな言葉である「夢の循環」です。
社会人チーム結成5年後に「全国社会人サッカー選手権」に出場し後4度全国へ。
そして1996年には「歓喜の瞬間」が訪れます。
全国クラブチーム選手権優勝!!「アマチュア日本一」になります。

〔質問〕:サッカー経験が少ない監督がサッカー指導、難しくなかったですか、、、

・自分にサッカー経験がないというのは凄いハンディでした。
子どもに頑張れというなら自分も子どもに負けないで勉強しようと必死でした。
・トレーナーやスポーツ指導員など資格を取りに、また強いチームがいると聞けば
足を運び指導を仰ぎ、遠くは関東、静岡、西日本各地出掛けていました。。
・当時大学日本一だった大商大には長期休みごと日参して全国の有名強豪高校に胸を
借り、お蔭で無名だった勤務校福崎高校が2度兵庫県のファイナルや近畿で3位に。
個人も国体選手が数名。日本リーガーや日本ユース代表候補まで輩出するまでになりました。
※恥ずかしさ、遠慮、ためらいもなくどこにでも出掛けられたのは
「サッカーの経験のない者の強み」がそうさせたのかも知れません。
・福崎高校では私の人生の「第2の転機」になった教え子たちに出会います。
私に指導力がなく、ただ厳しいだけでしたが信じてついて来て、支えてくれ
数々の栄光を手にしてくれた二代に渡る主将たちです。
〔質問〕:指導する時に大切にしているのは、、、

(1)「自立」
・指導しすぎずに自分で考えさせ(自立)させることです。
・生徒の一番の特長を見つけ、そこを消さないで伸ばすことです。
(2)「あきらめない=努力の天才」
・物事はうまくはいかない。うまくいかないから工夫し考え粘り強くやり続ける。

〔質問〕:長年指導者をしていて印象に残ることは、、、

◆私の人生の「第3の転機」(厄年41歳)になった事です。当時の生活は
(1)5時半起床で一日の準備から始まる。
(2)6時半には津田SCの朝練を。指示して途中から福崎高の朝練へ
(3)福崎高では授業後→クラブ(サッカー指導)を7時過ぎまで。
(4)サッカー素人の私が日本リーグの審判のためトレーニングを生徒と一緒に。
(5)家庭訪問のかたわら→週2回津田社会人のナイター指導→9時すぎ帰宅。
(6)帰ればサッカー部員やクラスの生徒の交換ノートにサッカーだより作成。
(7)「週末」は少年や高校の試合。選抜チームのコーチ、審判活動。
・1日2時間の睡眠という日が続くが楽しい日々(私にやっと青春が、、、)
もっと時間がほしいと思う矢先、、体調に異変が、、、、
ムリにムリがたたり医者から「あと3週間の命」と(人生終わったと、、)
・入院、手術、リハビリ3ヵ月間は「死に対する恐怖、将来への不安」と
「なんで俺が、、、ねたみ、ひがみ」の毎日。人生どん底へ。
※心臓にペースメーカーを埋め込み手術。なんとか命をつなぐ。1級の身体障害者に。
毎日大勢の生徒たちの見舞いに励まされ退院にこぎつける。
・退院後は通院の中で「今までのやり方ではいけない、違う自分に出会いたい」と
願う一方で
☆神様は「私をこういう体にしてくれたのはきっと何か意味があるのでは、、、」
と考えるまでに1年半かかった。
そしてその答えは
①休むことを覚えた、②体が無理なら「心」で生徒に寄り添うこと
・退院後は新勤務地琴丘高校では身障者となりましたが
「少し不自由だが不幸ではない。生きてるだけでもうけもの、残り人生人助け」
※人生の最大の危機だったピンチをチャンスにする生き方をびました。

・琴丘高校サッカー部に着任し、いつもの目標である「3年後に姫路でトップ」
「5年後に兵庫でベスト4」の目標を果たしつつ「6年後には全国へ」
だが決勝では全国屈指の強豪となった滝川第二高校に敗れ夢は消えました。
個人として数名の国体県代表、Jリーガー4名、日本代表も出てきてくれた。

〔質問〕:2000年にNPOを法人を設立されましたが、、

 ・人口55万人中核都市姫路に当時はサッカー専用の芝のグランドは一つもなく
Jリーガーも数名、日本代表もやっと一人程度。
・青少年を強化しないと姫路は、、、と危惧したサッカー指導者仲間が集まり
2年にかけて下準備をして2000年に現在のエストレラが誕生します。
・2000年は私も50歳。教員の集大成に向けての年齢になっていました。
<10年後のビジョンは>
(1)エストレラを陰から支える。
(2)津田SCも40年を迎え充実させる。
(3)琴丘高では学年主任をさせてもらいながらもう一度全国の「夢」を果たす。
*だが県総体決勝で現:日本代表の岡崎擁する滝川第二に又も敗退します。
(4)カウンセリング資格の取得を目標として一番<勉強>をした年代です。

〔質問〕:姫路が好きなんですね

・姫路で生まれ姫路で育ちました。生徒や子どもたちには「県外や世界へ行け!」と。
でも戻ってきてほしいんです。子どもたちが「やはり姫路はいい」と自慢できる
「街づくり」をする責任が我々大人にはあります。

〔質問〕:エストパークがこのほど完成しましたが、選手は、、、

・17年近く悪環境で選手たちは取り組んで来ました。やっと活動拠点である
ホームグランドができました。これほど嬉しいことはありません。
北側に山。南側に海。グランドに立っているだけで気持ちのいいこの場で
イキイキとサッカーに取り組んでいます。本当に作ってよかったです。

〔質問〕:これからの目標は

・還暦パーティの挨拶では「退職後サッカー場を作る」と公言しました。
それが昨年11月「エストパーク」として実現しました。
・66歳の今、教師を退職してからの目標は※「居場所」作りです。
(1)子どもたちの帰る場所(故郷)
(2)選手の強化の場、経験の場。
(3)健常者、身障者、高齢者さまざまな人が集い楽しむ場所。
(4)ハンディを背負った方々の活躍の場。
※野球は甲子園、サッカーは国立、身障者スポーツはエストパーク。
(5)不登校、閉じ籠もり等、学校や社会へ出ずらい人がゆっくりおれる場所。

〔質問〕:樽本さんの選手指導理念、目的

・サッカーで勝つ、結果を出す、全国へいくとかは2の次、3の次で
「人に好かれる人間作り」が目的です。
・40年以上掲げている〔指導理念〕
(1)一所懸命ひたむきに
何でも決めたら見ている人々が感動するくらいに「一所懸命ひたむきに」
(2)人のために
相手に「ありがとう」と言ってもらえる生き方「人のために」にどう動くかです。

〔質問〕:樽本さんのチカラの源は、、、

・私のチカラの源は「生徒と出会って生徒に育てられて」です。
この年になってこうして夢が見れ、語れるのも教え子たちのお蔭です。
「ありがとう」の感謝しかないです。これからも教え子たちと夢を追いかけたい。

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◆ケーブルTV「ウインクひめじチャンネル」「はりまのチカラ」は
6月中に放送があります<放送時間>は
<月、火曜>・11:00~11:30<水、木曜>・19:30~20:00
<金曜>・16:30~17:30  <土、日曜>・8:45~9:15
*インタビューの内容はいくつか編集されているとのことです。
よろしければぜひご覧下さい。