生徒という名の先生
*各年代のメモから
「自立、なぜ?」

大学を出て新卒教師の着任先が今思えば「ラッキー」な定時制高校分校。
生徒数約100人足らずで1~4学年まで1クラス。専任教師は7名。
規模は丁度いいが何もわからないままスタート。
いきなり2年生担任。体育主任(体育教員私1名)。生徒指導主担当(私1名)
当時教育界は紛争が大学から高校に移りまさに学校は「荒れた」状態。
高校は大手、中小企業が連なる姫路南西部(網干地区)の播磨工業地帯。
生徒の仕事内容は何千度という溶鉱炉内で汗や油まみれの作業。早朝出勤をして
職場の準備から清掃や片付けなどに精を出す職業訓練生や初心者労働が多い。
進学理由は高卒免許取得希望者。勉強だけでなく仕事をして家計を支える者。
遠く離れた地から来姫し仕送りをしている者などすでに「自立」ができている
生徒相手に新米の私が進路指導、キャリア教育、生き方指導などできるはずがない。
だが私の職業は「教師」。教師として何もできず悩み苦しんだ。

生徒から学びながら自分らしく自分しかできない自分のできることをしよう。
自分ができることは生徒と一緒に楽しんでやることと決めた。それしかできない。
するとメチャクチャ楽になった。
週末になるとうちに集まり「HR合宿」まがいなことをやり同じ時を過ごした。
夕食を作って食べて職場や上司、同僚、家庭、故郷などのたわいもない話から
整備士、タイヤ関係、販売、セールス、大工、飲食店、銀行など仕事は多種に
渡って仕事の話(仕事内容やしくみ)大人社会での生き方などを話し込んだ。
私にとって全てが新鮮で尊敬に値する生徒たちであり多くのことが学べた。
この生徒たちには私の「結婚祝賀会」を手作りで催してもらい感謝感激。
その結果この6年で自分の「教育指針」を見つけ退職するまで43年間通した。
その(教育指針)とは自立。見つけることができまさに「ラッキー」だった。

「なぜ?」
一方でもう一つ「ラッキー」だったことは昼間は講師として播州地区で
有数の進学校姫路西高、姫路東高と私学の賢明女子学院で教鞭をとれたこと、
早朝と週末には地元で少年サッカーを指導できたことである。
定時制高校の生徒たちの経済的なこと、アパートでの一人暮らし、寮、住み込み等
の生活ぶりが上記三高校とは圧倒的なこの違い。これは生徒のせいだろうか??
そこから「なぜ?」と常に考える機会となった。
もし定時制の高校生の実態を知らずに普通高校に新任として勤務をしていたら
校訓を掲げ校則を厳守させ「学力向上」を目標に進路実績を上げ世間から
「いい学校」と評価を得るための教育指針に重心を置いて「勉強=高学歴」こそが
人生の勝利者だとしたら「勉強しろ!有名大学に進めないぞ、一生困るぞ!」と
ハッパをかけ学習や教科を厳しく指導し親や世間からも評価の拍手を送ってもらえる
教師をめざしていたかも知れない。
一人一人の生徒と向き合い「なぜ?」とは考えない教師になっていたかも。。。

学校でしか通用しない勉強(知識)は「学力」ではないと思う。
「学力」とは自立(社会性)を養うために身につけることだと思う。
そして得た「学力」を社会貢献に使うことこそが人間として幸福に生きること。
「自立」=「決断」であり学校の指導や職場上司の指示を待って決めるのではなく
自分で堂々と意思表示し自分で「決断」し行動できることこそ「自立」。
福崎高ではサッカー部や授業、クラスで徹底して「なぜ?」と考えられる人間と
して鍛えたつもりだがなかなかうまく伝えられず時には反発されたり反骨心を
持たれたりした。あきらかに教師力不足。また悩んだ。

勉強せずに遊んでばかり道徳心も乏しく秩序を乱し問題行動を起こす生徒と出会う。
教師や周りの大人は「ホンマにこいつらは、、、」と眉をひそめ冷たい目で見る。
(正論)を言い上から目線で説教を続ける。高校生にもなれば(正論)が正しいことは
わかっているはず。

「なぜ?」と生徒の気持ちをわかろうとせず生徒に「わかったか」と従属させ
「ハイ」と返事がないとボロくそに文句を言い続け「なんやその態度は、、、」
思い通りに素直にならないと怒鳴り、あげくの果て「もういい、帰れ!」と。
荒れる生徒にはなおも強権な手段、力で抑えにかかる。
生徒が「ハイ」と黙ると「よし」と教師の自己満足。
一時的に収まったように見えるが「もうこの教師に言ってもムリ、あかんわ」と
嵐が通りすぎるのを待ってるだけ(実は生徒は見抜いてる)
かたや「注意しておきました」といっぺん通りの指導しかしない教師。
親まで「先生のいうことをまじめに黙ってよく聞け!勉強さえすればいい」と。

新米で赴任した定時制高校ではそういう指導が全く通じず意味をなさないことが
わかったことがほんとうにラッキーだった。
生徒の心の奥底に隠れてるなぜ?に気づこうと。

不遇な家庭生活(離婚、別居、死別、経済的、虐待)が原因として生徒が荒れ、
問題行動をたびたび起こし教師が解決できる教育レベルではないと判断すると
教師は踏み込まない、いろんな理由をつけて(教師は理由付けがうまい)
私はなぜ?を心に問題行動を起こし反抗、逆らうのはこちらを試してる
私に向かってのメッセージである。
それを知らせるための問題提起であり私に助けを求めている行動と真っ正面から
受け止める。うまくいかずとも気持ちは絶対に通じるはずと信じて。
この生徒はこの世の中にたった一人しかいない必ずいいところがある。
見落さず注意深く(気づき)受け入れた。
そうすると出会ったほとんどの生徒が心を開いてくれ今も付き合いが続いてる。
それどころかそういう生徒は定時制生徒と同じく尊敬に値する能力、優しさ
男らしさ、気配りを持っている。やはり尊敬は年齢に関係ない。
だが私の若さや経験不足、不安、余裕のなさからうまくいかないと感情的になり
たくさん迷惑をかけ反省の連続の(30歳~福崎高)12年間だった。

琴丘高へ転勤が決まったが無理にムリがたたり生死を彷徨い「寿命」を切られ
恐怖と不安の入院生活。社会復帰できるか、、万が一できたら。。。。
琴丘高でも「人のために(社会貢献)」と自立を教育指針にして
「一所懸命ひたむきに」目の前のことを手を抜かず頑張ることと
「気づき」をテーマにして職場復帰をした(41歳)

授業では体験談を語り、サッカーを通じて体験させミーテングやサッカーだよりで
思いを伝え生徒にはレポートを書かせては気づかせてきた。
テーマ通りできたかどうかは23年間ともに過ごした琴丘高生が出してくれるはず。
その答えを福崎、琴丘の卒業生と食事会を持って聞かせてもらっている。

最後の教員3年間は姫路高。そこには多くの教員志望の生徒がいた。
子どもが親以外に初めて出会う大人=「先生」子どもにとって重要で大切なので
「きれいにさわやかに」を掲げ人に愛される人間形成を求めた。
一方で枠や型にはめず、手取り足取り指導をしないで生徒になぜ?と。
また本物の大人と多く出会わせ感性を磨き、問題を投げかけ答えを待った。
「自分はどうするか?どうあるべきか?」と考えさせることに重点を置いた。
サッカー部員も数多くが教員志望。いつの日か教育論を語りあいたいものだ。