たるさんの部屋

☄星になった教え子(1)

*琴丘高サッカーだより第539号から*

平成24年暑い夏が終わり2学期早々兵庫県選手権西播予選でまさかの敗退。
着任して20年以上続いていた県大会出場が途切れた翌日の出来事。

*9月11日:新チーム始動の日
「桝本和成(呼び名=ます)」が練習後倒れた。
姫路循環器センターへ緊急搬送。病名は・・・・・。危ない。
搬送先は私が21年前に心臓停止寸前で意識を失い戦った集中治療室(ICU)。
なんという巡り合わせ。
即、緊急手術。医者は危ないが手術ができれば望みが、、、手術開始午後8時。
そこから7時間の大手術。全ての手は尽くされ悪いなりに症状は安定へ。
手術後は脳のダメージを休めるために眠ることになる。
部員には夏の疲れが出てしばらく病院で静養してるので「心配するな」と。
私一人で抱えるのは辛くて学年主任、副主任(共にサッカー部顧問)には逐一報告。
本当に両先生には助けていただいた。

*9月16日
医師からは「本人とつながりが強くある人から呼びかけてもらうと少しでも
早く麻酔から覚めますので」とのことで〔ます〕の呼びかけに(ICU)へ。
「ます~、起きろ!!練習に遅れるぞ、みんな待ってる、ボール蹴るぞ」
耳元でわめき続け手を握り体をさすり続けるが私は涙が止まらない。
私もペースメーカー埋め込み手術の際に麻酔をかけたあと記憶がなくなって
いったことを鮮明に覚えてる。
そんな状況でも聴覚と皮膚感覚は最後まで生きてると信じて叫び体をさする。
やがて〔ます〕の目からうっすら涙が、、、「ます!聞こえたら手を握り返せ」
すると人指し指が微かに動いた。そばにいたお父さん、お母さんもビックリ。
右肩が動き起き上がろうとする。通じた。さすが頑張り屋の〔ます〕
だが「1週間以内に再発すると危険」と言われたその矢先に最悪の事態が。。

*9月17日
またも4時間をかけて大手術だが状況は危険なまま。
両親に「もう私一人の力では無理。どうか仲間に会わせてやってほしい。
部員のパワー、力がいる。あいつらが何も知らないまま、このまま、、、」
とお願いをして両親と病院からの面会の許可をいただく。

*9月18日
放課後3時30分に緊急ミーティングを開き今まで伏せていた病状を伝える予定。
5時45分に部員も「ICU」へ入り面会できるまでに何とかこぎつけた。
だがミーティングまで待ってくれず〔午後3時〕危篤状態に陥り家族が招集される。
両親にせめて一目だけでも部員にと懇願。
学年集会中の部員たちを学年主任に依頼して急遽「ICU」へ。
何も知らない部員の目の前のベットには〔ます〕の強烈な信じがたい姿が。
あ然、ぼう然。やがて泣き出しベットの横で崩れる。驚きで声も出ない。
やがて我に返り〔ます〕の体をさわり、さすり、手を握り。そして絶叫。
「ます!ますーーッ」「サッカーしょー」「ます!ます!」、、、修羅場、、、
だが無情にも看護師の「家族だけの時間にして下さい」との声。
待合室や緊急出口で手を合わせて祈り泣くしかできない。
あきらめて帰った夜「みんなに会ったあと血圧が上がり心臓も動き出した」と。
あきらめない〔ます〕まさに「琴丘魂」

*9月19日
「ICU」大人数での面会は無理なのでグループに分ける。
3年の先輩にも声をかけるが初めて聞く話にショックで動揺を隠せない。
播戸竜二(C大阪)増川隆洋(名古屋)の琴丘大先輩から激励FAXを枕元へ。
〔ます〕の憧れの播戸選手が翌日練習後、大阪から見舞いに来てくれる。ありがたい。

●9月20日
だが祈りも届かず9時21分。お父さんから「ダメでした」と。絶句!!
昼休み。悲しい話を部員に伝える。ただただ泣くしかないできない。
◇10日ぶりに我が家に帰った〔ます〕は安らかないい顔。
〔ます〕はいつも穏やでイヤ味を言ったり人を傷つけたりしたのを見たことがない。
仕事は手を抜かずまわりへの気遣い、気配りは痛いほどできる。
〔ます〕のきれいな心のまま「美しいきれいな顔」で戦い疲れて眠っていた。
19日に部員との面会後、夜中に「ダメです」とまたも「宣告」を受けたそうだ。
お父さんが「和成、、明日な、播戸選手が来てくれるで!」と耳元で話すと
右肩を動かし起きようと朝まで頑張ったらしい。

お通夜も告別式もたくさんの仲間に囲まれ旅立った。
悲しみの中でも毅然とした部員の態度、立ち居振る舞いには感銘。
小学、中学の多くの級友にも囲まれた〔ます〕の人柄の良さがここでも表れていた。
[和成]・・・和を以って事を成し遂げる
その人の価値は「亡くなってはじめてわかるもの」とよくいわれる。
名誉、財産、地位ではなくどれだけ多くの人々から「惜しまれ」見送られたかで決まる。

学校の計らいで1年後の「卒業式」には笑顔の〔ます〕がいたそうです。
その後の月命日には同級部員の誰かが〔ます〕の部屋に。
大好きだったAKBの曲もいつも流れ、戦った琴丘ユニホームもポッキーもそのまま。
「成人式」も部員全員が集合。
いつ行っても半分照れた〔ます〕らしい笑顔がそこにある。
ご両親曰く「和成はもうこの世にはいませんがたくさんの息子が我々にできました。
この子たちの成長を楽しみにしてます」と。
またいっぱい悪ガキ連中がお邪魔しますがよろしく。

ーー合掌ーー
※平成28年9月20日午前9時21分記

 

 

星になった教え子(2)

〔ます〕を見送った3か月後。
*11月の練習中、走り方がおかしいので医者に行くようにすすめるが「接骨院では
大丈夫と言われました」と、でも見るからに痛々しく頑張る1年生がいた。
それが〔石原歩〕。
琴丘サッカー部のスローガンである何事も「一所懸命ひたむきに」
モットーである「人のため、チームのために」さぼったり手を抜いたりはしない。

*冬休み最後の練習日「大丈夫です」しか言わない〔歩〕に「病院で検査をしないと
年明けの練習に参加させない」と強制的に大きな病院へ行かせる。
その夜、電話口では〔歩〕の涙声。診断は「骨肉腫の疑い」と。絶句!!

*翌日30日。朝一番でみぞれまじりの寒い中〔歩〕の所へとんでいく。

*正月3日。明石ガンセンターに入院をする〔歩〕を樽本家で「壮行会」を開く。

*翌4日から長く辛い闘病生活、抗ガン剤治療が始まった。
寒かった季節が病棟の窓の外はいつしか春が、、、でも治る気配がない。
私が行くと「たるさんが来るからちゃんとしないと」と準備して明るく気丈に。
私が帰ったあとはグッタリと寝込んでたそうだ。
苦しくつらいはずなのに気を使ってくれる。〔歩〕らしい。
二人の会話内容は病気の話は禁句。夢を語り世間話やバカ話などたわいもない話。

*3月末悲しいかな琴丘から転勤話が、、、このタイミングでそんなバカな。
管理職や教育委員会にも頼んだが、、、〔ます〕も〔歩〕も置いて行くなんて。

*5月の連休に退院という言葉を信じて〔歩〕は戦い続ける。
だが試す抗ガン剤が効かない。医学ってこんなものかな(不信感が)
それどころか「膝から下を切断」という酷な宣告。これでもか、、と〔歩〕を襲う。
それでも会うと「ペースメーカー装着の俺と義足の〔歩〕とサッカー指導にいこう、
審判をコンビでやるか?パラリンピックでは金メダル狙うか、、」
顔にこそ出さないが恐怖で胸が張り裂けそうだったと思う(辛いやろうに、)

◇残酷な手術前。
一時帰宅を許可された日。樽本家で再び「壮行会」を。サプライズ3つ用意。
(1)つめは私の得意料理「お好み焼き」
(2)つめは樽本宅でサッカー仲間が待ち受ける。
(3)つめは〔歩〕の香寺中の先輩で琴丘高入学志望動機だった「あこがれ」の人。
播戸竜二先輩が練習後大阪からかけつけてくれた。
ユニホームのプレゼントや一緒に写真をとったりサッカー話に華が咲いた。
竜二はネガティブな話を一切さずふつうに接してくれた、さすが。
〔歩〕の嬉しいそうなが顔が強烈に残った。いい一日だった。

*それも束の間。すぐに過酷な現実へ。
片足切断後も見舞いに行く度「目標は琴丘へ戻るぞ。修学旅行に行くぞ」
人目に触れることさえ恥ずかしいはずなのに無神経にも無理難題を(すまん)
だがそれに応えるように琴丘高校へ1週間通学。でも、、、、
この時ほど琴丘高校にいたかったと思ったことはない〔歩〕のそばに、、、、

*一向に症状はよくならない。石原家はついに決断してかすかな可能性にかけ
「金沢大学病院」へ転院。その頃はまた寒い季節がやってきていた。
金沢へ見舞いに行くと義足で颯爽と歩く姿をたるさんに見せると必死にリハビリ。
その姿が「動画」にあった。かっこう良かった。

〔歩〕は現実を受け入れ自力で生きる道を選ぶ。
少しでも日常生活ができるようにと香寺から明石までリハビリに通う。
※ここまで頑張れる17歳はいるだろうか、、、しかも笑顔で。

*新しい年を迎えるが病院からは「延命治療に入る」と。
家族は〔歩〕にはそのことは伝えない。だが〔歩〕のことだから気づいてるはず。
高校は琴丘、市姫と違えども私のできることをしなくては、、、
クラスメイト〔A子〕。〔歩〕が入院中もあえて隣の席になり〔歩〕の机を拭いて
帰る日を待ち続け、授業ノートをとり私が見舞いに行く時に手紙とノートを託して
奇跡の生還を願う〔A子〕に早速相談。
急きょ「たるさんクラス」を作る。クラスメンバーを募集。〔歩〕が委員長。
〔歩〕にメンバーと役員を知らせると「僕が委員長ですか?」と照れくさそう。

*終業式あとに「第1回クラス会」(3月20日)
その頃の症状はなおも悪化、起きることさえ厳しい。呼吸器も常時必要。
内臓各箇所に水がたまり心臓を圧迫。クラス会参加はムリかも、、、、、
でも〔歩〕は「笑顔」で車椅子でやってきてくれた。
大好きな仲間、先輩たちとの「クラス会」そこには涙も暗さもない。
明るくギャグ好きな〔歩〕がしょうもない芸やお笑いに思い切り笑ってくれた。
楽しいことは時間が過ぎるのが早く、あっという間の1時間。もっともっと、、、
会の準備に奔走してくれた〔A子〕は保健室で布団をかぶって寝込んでいた。

*その夜なおも一段と悪化。医者からついに「日にち」を切られた。
そこで〔歩〕と石原家は病院を出て自宅で家族と暮らす決意をする。
私の三女(好美)がつきっきりで石原家にいて〔歩〕を支えてくれた。
数日と宣告されてから約1ヵ月家族と過ごしお父さんといっしょにお風呂まで。

*5月2日
姫路高校で授業の間、悪い予感がして携帯を見ると○○病院へ緊急搬送と。
姫路高校の生徒に事情を話しとんでいく。そこには集中治療室で戦う〔歩〕。
だが呼びかけには応じてくれない。〔ます〕と同じ〔歩〕にも涙があった。
悔しい、悔しいやろうな、何でこんないい奴が、、、
〔歩〕が悪いことでもしたか、、、?
気になりながら姫路高校へ戻る車中「訃報」を聞いた。涙で前が見えない。

※告別式は「第2回クラス会」になった。
クラス会の参加人数は小、中、高校の仲間、級友などものすごい数。
ホール、玄関にも入りきれず式場を取り巻き延々と焼香が続く。
私が弔辞を読ませてもらった。
〔歩〕は笑顔、気配り、優しさ、頑張りなど何をとっても最高の教え子やった。

*今〔歩〕は大好きな秋祭り、屋台が奉納される神社横でみんなを見守っている。
ゆっくり語れる座石がありそばを播但線が通り一望できる素敵な場所で。

亡くなって初めての〔歩〕の誕生会は
お母さん曰く「今までで一番盛り上がった最高のバースディ」だったそうだ。
〔ます〕のおうち同様〔歩〕のおうちもみんなの「たまり場」になっているそうだ。
私から「あまり迷惑かけるなよ、遠りょしいの〔ます〕〔歩〕が困ってるぞ」

ーー合掌ーー